第138話:倉敷駅の跨線橋、ブロンズの風が睨む
山陽本線と伯備線が分岐する岡山県倉敷駅。
初夏の強い西日がコンクリートの跨線橋を赤銅色に染め上げる中、水木蒼太は、足元に転がした自分の黒いバックパックを見つめ、虚脱感に苛まれていた。
二十七歳。
擦り切れたスニーカーに、ヨレヨレのジャケット。
その足元に転がっているのは、蒼太自身が企画し、東京のIT系アパレルEC企業で数十万個を売り上げたはずの「超軽量ナイロンリュック」だった。
だが、そのリュックの肩ベルトの付け根は、無残にもパックリと裂け、内側の白いナイロン繊維がほつれて飛び出している。
「……軽くて、安くて、トレンドの最先端、か」
乾いた自嘲が、吐息とともに漏れた。
先週まで、蒼太は会社の「若きホープ」として持て囃されていた。
コストを極限まで削るため、東南アジアの無認可工場へ生産を移管し、生地を薄くし、縫製工程を半分に減らした。
『軽さは正義だ! 今の若者は重い本物なんて求めてない!』
社内プレゼンで豪語し、売上グラフを右肩上がりに伸ばした。
だが、結果は惨憺たるものだった。
発売から三ヶ月。電車の中、通学路、オフィス街で、肩ベルトが突然千切れてパソコンや荷物が落下する事故が全国で多発した。
SNSは大炎上。「詐欺商品」「安物買いの銭失い」の罵声がネットを埋め尽くし、全品回収のリコール費用と損害賠償で会社は巨額の赤字を計上した。
『水木、お前の安易なコストカットのせいで会社が潰れかけたんだぞ。全責任を取って、今すぐ辞表を書け』
役員室で冷酷に吐き捨てられた言葉。
逃げるように飛び乗った新幹線。
生まれ故郷である岡山へ戻ってきたものの、倉敷駅から徒歩十五分の場所にある実家――百年の歴史を誇る老舗『水木帆布織布』の敷居を跨ぐ勇気など、これっぽっちもなかった。
『こんな重くて硬い布、現代の若者は誰も使わねえよ! 時代遅れの化石工場め!』
五年前、父・源造にそう怒鳴り散らし、勘当同然で東京へ飛び出したあの日。
軽さと効率を信じて都会へ行った息子が、軽さと安さに裏切られ、ボロ雑巾のように放り出されて帰ってきたのだ。どの面を下げて親父に会えというのか。
その時だった。
跨線橋の改札口へ向かって歩いていく、一人の黒いリネンシャツを着た青年が、蒼太の視界を掠めた。
東京から同じ新幹線で岡山へ来たのだろうか。
手ぶらで歩くその青年の肩掛けカバンの横に、鮮やかな深い藍染めの布の端切れが、真田紐でしっかりと結びつけられていた。
「……あっ」
蒼太は思わず目を奪われた。
その布の表面に走る、太く力強い綿糸の畝。
児島の深い藍の海を思わせる、深遠なインディゴブルー。
「……うちの工場の、一号帆布だ」
見間違えるはずがなかった。
極太の綿糸を何本も撚り合わせ、昔ながらのシャトル織機で限界まで高密度に打ち込まれた、世界最強の極厚帆布。
なぜ見知らぬ都会風の青年が、うちの布を大切そうにカバンに結んでいるのか。
問いかける暇もなく、蒼太のズボンのポケットで、硬い紙片がカサリと熱を帯びた。
引き出してみると、それは新幹線の切符入れの奥に紛れ込んでいた、見覚えのない一枚の硬券切符だった。
行先も、運賃も書かれていない。
ただ中央に、燃え立つようなブロンズゴールドの文字で刻まれていた。
――『風の切符』
「風の切符……? なんだこれ……」
キィィィィィン……!
突如として、ホームの空気を切り裂くような、洗練されたインバータの高周波音が響き渡った。
跨線橋の階段の下――伯備線へと向かう二番線ホームに、滑るように入線してきた一編成の列車。
西日を浴びて、鈍く、重厚に輝くメタリックな車体色――『やくもブロンズ』。
流線型の精悍なノーズに、山陰の霊峰・大山を象った金色のシンボルマーク。
山陰と山陽を最短で結ぶ最新鋭の振り子式特急――『やくも(273系)』だった。
そして、その乗降扉のステップの上に、一人の少女が仁王立ちしていた。
メタリックなブロンズと白を基調とした、仕立ての良いタイトなスーツドレス。
跳ね上がるような快活な栗色のツインテール。
胸元には雲海と大山のピンバッジ。
そして、その双眸――黄金と赤銅が混ざり合ったブロンズゴールドの瞳が、跨線橋の上から見下ろす蒼太を、射抜くように睨みつけていた。
「おい、そこの破れたリュックの男!」
凛とした、しかしどこかツンと澄ました勝ち気な声がホームに響いた。
「実家の門の前でウジウジ引き返すくらいなら、最初から岡山になんて戻ってくるんじゃないわよ! そんなペラペラの背骨で、よくも伯備線の前に立てたものね!」
「な……君は誰だ!? なぜ俺の実家のことを知っている!?」
「私は『やくも』! 中国山地の険しき山河を最短で貫く、伯備線の駿足特急よ!」
少女――やくもはヒールブーツをカツンと鳴らし、手にしたタブレットを腰に当てた。
「風の切符を持つ迷い人、水木蒼太。……乗りなさい! あんたのその折れ曲がった情けない背骨を、高梁川の激流と私の新しい振り子で、根底から叩き直してあげるわ!」
反論する間もなく、蒼太はやくもの強引な手つきで腕を引かれ、ブロンズの光を放つ最新鋭の客室へと引きずり込まれていった。




