第137話:風のキャンバス、ブロンズの特急が待つ倉敷へ
翌朝、初夏の青空が広がる宇野駅のホーム。
岡山行きの普通列車の扉の前で、蓮司は背筋を真っ直ぐに伸ばし、胸に抱えたスケッチブックを強く抱きしめていた。
その表紙の隙間から、昨日、児島の真田紐の工房で譲り受けた、深い藍染めの帆布の端切れが、お守りのように覗いている。
「蓮司君。東京へ帰ったら、どうするんだい?」
木製トランクに手をかけたラ・マルが、悪戯っぽくウインクしながら尋ねてきた。
「会社へ戻ります」
蓮司の瞳には、もう迷いの影は微塵もなかった。
「退職届を出すためじゃありません。上司に、役員に、このスケッチブックを叩きつけるためです。『人が呼吸できる余白のないデザインなんて、ゴミだ。俺の作った本当のデザインを見てくれ』って。……それでクビになるなら、喜んで自分のスタジオを立ち上げます!」
「アハハ! それでこそ、僕の乗客だ!」
ラ・マルは快活に笑い、白いエナメルのシューズを鳴らした。
その時だった。
蓮司のズボンのポケットが、ポッと温かいアクアブルーの光を放ち始めた。
取り出してみると、あの『風の切符』だった。
厚みのある硬券の表面に、瀬戸内海の潮風が集まり、鮮やかな円形のスタンプが浮かび上がってくる。
白と黒の洗練されたストライプ、真鍮の留め具がついた木製トランク、そして軽やかに回る自転車の車輪をあしらった、お洒落なマリンスタンプ。
――[宇野線・宇野/下車前途無効・風のパレット 完了]
文字が完全に定着した瞬間、切符は役目を終えたかのように、柔らかな光を収めた。
「……旅の終わりだね」
ラ・マルが、ベレー帽の縁に指先を当てて、軽やかに敬礼した。
「ボン・ヴォヤージュ、瀬川蓮司君! 君の人生のパレットに、最高の色が満ちることを祈っているよ!」
「ありがとう、ラ・マル! 行ってきます!」
発車のベルが鳴り、列車が動き出した。
窓から身を乗り出して手を振る蓮司に、ラ・マルは木製トランクを高く掲げて見送ってくれた。
* * *
一時間後。
宇野線から岡山駅を経由し、山陽本線の電車で倉敷駅へと降り立った蓮司。
東京行きの新幹線へ乗り換える前に、美観地区の白壁の町並みを一目見ようと、跨線橋を渡ろうとした、その時だった。
キィィィィン……!
伯備線へと向かう隣のホームに、滑るように入線してきたのは、蓮司がこれまで見たこともない、異次元の気品を放つ最新型の特急列車だった。
太陽の光を浴びて、深く、重厚に底光りするメタリックな車体色――『やくもブロンズ』。
流線型の精悍なマスク、白と銅色の完璧なコントラスト。
車体側面には、山陰の霊峰・大山をモチーフにした真新しいシンボルマークが輝いている。
――新型特急『やくも(273系)』。
そして、その乗降口のデッキの前に、一人の少女が仁王立ちしていた。
メタリックなブロンズと白を基調とした、仕立ての良いスーツドレス。
跳ね上がるような栗色のツインテールを揺らし、腕組みをして、勝気そうな瞳でホームの改札口を睨み据えている。
「……ふん。逃げ出してきた割には、ずいぶんと遅いお着きじゃない」
少女――鉄娘『やくも』が、不機嫌そうに呟いた。
その視線の先には、肩を落とし、失意の表情で倉敷の改札口へと向かう、一人の青年の後ろ姿があった。
山陽の海から、再び中国山地の険しき山河へ。
鉄路の風は、ブロンズの光を纏い、新たな葛藤と伝統の町・倉敷へと受け継がれていくのだった。
(第十三章 了/第十四章『やくもと陽炎のブロンズ』へつづく)




