第136話:直島を望むペダル、空白という名の最高のアート
日没直前。
ペダルを全開で踏み込み、巨岩が林立する瀬戸内海国立公園の景勝地――『王子が岳』の山頂断崖へと駆け上がった。
キキッ……とディスクブレーキが鳴り、二台の自転車が止まる。
息を乱しながら、蓮司は断崖の突端に立った。
その瞬間、彼の視界を奪ったのは、言葉の一切を失わせるほどの、天地のスペクタクルだった。
「……ああ……っ」
標高二百三十メートルの断崖から見下ろす、瀬戸内海のパノラマ。
水平線に沈みゆく巨大な夕陽が、空と海を真っ二つに染め上げていた。
燃え盛るような深紅。
溶けた黄金。
天頂に向かって広がる、妖艶なバイオレットと、どこまでも澄み切った深い藍色。
そして、凪いだ海面の上に、黒い切り絵のように浮かび上がる無数の島々――その中央には、現代アートの聖地・直島が、静かに横たわっている。
広告の文字は、どこにもない。
クリックを急かすボタンも、売上を煽るバナーも、何一つない。
ただ、圧倒的な広がりを持つ「自然の余白」が、空と海を満たしていた。
「どうだい、蓮司君」
ラ・マルが、自転車に腰掛けたまま、アクアブルーの瞳を細めた。
「これが、僕たちの愛するパレットさ。何百万頭の牛を売るためでも、何億回のクリックを稼ぐためでもない。……ただ、そこに生きる人間が、息を吸い、涙を流すためだけに、神様が毎日描いてくれている最高の絵画なんだよ」
蓮司の胸の奥底で、何かが激しく弾け飛んだ。
蓮司は膝をつき、カバンから一冊のスケッチブックと、真鍮のホルダーに差し込まれたデッサン用のペンを取り出した。
東京を出てから、一度も開くことのできなかった真っ白な紙。
震える指先で、ペン先を紙に落とした。
サッ――。
一本の線が走った。
迷いはなかった。
文字で埋める必要などない。
ただ、この王子が岳の断崖を吹き抜ける風の軌跡を。
夕凪の海が放つ光の余白を。
宇野港のチタン金具を削った無名の職人の熱を。
因州和紙の繊維の温もりを。
真田紐を織る老職人の縦糸と横糸の誓いを。
サササッ、シュッ、サッ……!
走るペンの速度は、もはや思考を追い越していた。
一枚の白い紙の上に、大胆な余白とともに、瀬戸内の風が、光が、魂の輪郭となって紡ぎ出されていく。
「描ける……」
蓮司の目から、大粒の涙がこぼれ落ち、スケッチブックの余白へとポタポタと吸い込まれていった。
「描けるよ……! 俺、まだ描ける……! 俺の手は、まだ死んでいなかったんだ……!」
ラ・マルは傍らで静かに佇み、夕暮れの海風にベレー帽のリボンを遊ばせながら、微笑んでいた。
「お帰り、蓮司君。君のパレットに、本当の色が戻ったね」
太陽が水平線の彼方へと完全に溶け込み、空には最初の宵の明星が、銀色に瞬き始めていた。
若きデザイナーの魂が、瀬戸内の風の中で、完全に甦った瞬間だった。




