第135話:オリーブ牛のグリル、レモン塩と夕凪のパレット
ペダルを漕ぎ上がり、児島の海岸を見下ろす小高い丘の上。
オリーブの木々が風にざわめくオープンエアのレストラン『テラス・ド・セトウチ』のウッドデッキに辿り着いた頃、西の空はゆっくりと黄金色へと染まり始めていた。
眼下に広がるのは、波一つ立たない夕凪の瀬戸内海。
多島美の島々が、紫のグラデーションの海原に、静かに浮かんでいる。
「お疲れさま、蓮司君! 海を見晴らす最高のパレットで、極上のディナーをいただこう!」
ラ・マルがテラス席の白いテーブルへと腰掛けた。
やがて、白エプロンのシェフが運んできた大きな平皿を見た瞬間、蓮司はデザイナーとしての感性を激しく揺さぶられた。
「……なんて、美しい盛り付けだ」
真っ白な有田焼のワイドプレートの中央に鎮座するのは、薪火の直火で豪快に、かつ繊細に焼き上げられた厚切りの牛肉――『讃岐オリーブ牛のランプ肉グリル』。
表面はこんがりと香ばしい狐色に焼き固められ、側面から覗く断面は、まるでルビーの宝石のように瑞々しい深紅色を讃えている。
そして、その肉を取り囲むように、皿の余白には絵の具のパレットのように色とりどりの調味料が絵画のように配されていた。
瀬戸内レモンの黄色い果皮を混ぜ込んだ粗塩。
直島の海水を天日干しした純白の大粒結晶塩。
完熟オリーブの実をすり潰した漆黒のタプナードペースト。
そして、鮮やかな萌黄色の搾りたて無濾過エキストラバージンオリーブオイル。
「小豆島で、オリーブオイルを搾った後の果実を飼料に混ぜて育てられた、幻の黒毛和牛さ」
ラ・マルがフォークを手に微笑む。
「オレイン酸がたっぷり含まれていてね、脂の融点が人間の体温より低いんだ。熱いうちに切り分けてごらん!」
蓮司はナイフを入れた。
スッ……と、刃先が吸い込まれるように肉を割いていく。
赤身の繊維から、透き通った肉汁がじんわりと滲み出し、薪の燻製の香ばしい香りが立ち上る。
まずは、レモン塩を少しだけつけて、口の中へと運んだ。
「――ッッ!!」
噛んだ瞬間、蓮司の瞳が大きく見開かれた。
くどさが、全くない。
サシの入った高級和牛にありがちな胃にもたれる脂っぽさは微塵もなく、驚くほど軽やかで、澄み切った甘みが舌の上でサラリと溶けていく。
そして、噛み締めるほどに広がる、ランプ肉ならではの力強く野性的な赤身のコク。
そこへ、瀬戸内レモンピールの鮮烈な酸味と天日塩のミネラルが合流し、肉の旨味を何倍にも増幅させていく。
「……美味い! 脂が甘いのに、後味が驚くほど爽やかだ!」
「次は、オリーブペーストとオイルをつけてごらん!」
漆黒のペーストと緑のオイルをたっぷり絡めて頬張る。
オリーブ特有の若草のような清々しい苦味とフルーティーなコクが、肉の旨味を包み込み、まるで上質な赤ワインのソースを纏わせたかのような複雑で芳醇な味覚のシンフォニーを奏でた。
「この皿の上には……瀬戸内の太陽と、海と、大地のすべてが描かれている」
蓮司は呟いた。
「白紙の皿の上に、選び抜かれた色と味が、完璧な余白を持って配置されている。……誰かを無理やり説得するためのデザインじゃない。見る人を、食べる人を、心から幸せにするためのアートだ……」
最後の一口を飲み干した時、夕陽はいよいよ水平線の彼方へと沈もうとしていた。
そして、二人は最後のアート――自然が描く最大の奇跡を見届けるため、断崖の岬へとペダルを踏み出した。




