第133話:耳付きの因州和紙、デジタルの網点を越える温もり
自転車で海沿いのプロムナードを走り、赤煉瓦の古い倉庫をリノベーションしたアートギャラリー『瀬戸内デザインスペース』へと立ち寄った。
高い吹き抜けのギャラリー内には、直島や豊島のアートマップや、アーティストたちの版画、シルクスクリーンの作品が美しく展示されている。
その中央の壁面の前で、蓮司はピタリと足を止めた。
一枚の大型ポスター。
深い藍色と茜色のグラデーションで瀬戸内の夕凪を描いた、現代アートフェスティバルの公式告知ポスターだった。
「……紙が、違う」
蓮司は息を呑み、額縁のガラス越しではなく、直接壁にピン留めされた和紙へと顔を近づけた。
商業印刷で使われる、あの無機質でツルツルとしたオフセットコート紙ではない。
紙の表面には、楮と三椏の繊維がまるで絹糸のように縦横に絡み合い、光の当たり方によって微細な陰影が柔らかく揺らめいている。
そして、四方の縁――。
裁断機で機械的に切り落とされた直線ではなく、水の中で漉き上げたままの、ふんわりと綿毛のような毛羽立ちを残す「手漉きの耳」が、そのまま生かされていた。
「……鳥取の、因州和紙だ」
蓮司の呟きに、隣に立ったラ・マルが嬉しそうに頷いた。
「さすが、デザイナー君! よく分かったね」
「学生時代、和紙の歴史を調べたことがある。因州和紙は千年の歴史を持ち、墨の吸い込みと滲みが日本一美しい紙だ。……でも、どうして現代アートのポスターに、こんな貴重な手漉き和紙が?」
「第四章の旅人――美大生の藤堂栞さんがね、鳥取の青谷の工房で、一枚一枚、真心を込めて漉き上げてくれた紙なんだよ」
ラ・マルがトランクの真鍮バックルを撫でながら、静かに語った。
「彼女もかつて、絵を描く意味を見失って苦しんでいた。けれど、観光列車『あめつち』に乗って祖父の和紙の技に出会い、『用の美』――日常で人に使われてこそ輝く美しさを取り戻したのさ。……手で触れてごらん?」
蓮司は、スタッフの許可を得て、ポスターの余白の部分にそっと指先を滑らせた。
「――っ……!」
ざらりとした、しかしどこまでも温かく、吸い付くような肌触り。
インクが紙の表面に乗っかっているのではない。
植物の繊維の奥深くまで染料が染み込み、紙そのものが呼吸しながら色を抱きとめている。
――俺は、何をしていたんだろう。
蓮司の胸に、激しい恥じらいと後悔が押し寄せた。
自分はオフィスのデスクで、Retinaディスプレイの高解像度な液晶画面ばかりを見つめていた。
拡大すればどこまでも均一なピクセル。
ツルツルとしたガラス板の上をマウスでなぞり、数値で指定したRGBのカラーコードを貼り付けていただけだった。
素材の匂いも、指先に伝わる凹凸も、光を吸い込む繊維の深さも、何一つ感じようとしていなかった。
「デジタルの画面には、重さも、手触りもない」
蓮司はポスターから手を離し、自らの手のひらを見つめた。
「だから、指先を軽く滑らせただけで、一秒で忘れ去られてしまうんだ。……栞さんの漉いたこの和紙には、何十年経っても色褪せない『命の実在感』がある。これが、本物のデザインなんだ……!」
「そうさ!」
ラ・マルがパッと白い歯を見せた。
「触れた人の魂に、爪痕を残すような手触り。それこそが、アートの力だよ。……さあ、蓮司君! 次は織物の街・児島へ向かうよ。三百年解けない、最強の糸を見せてあげる!」
潮風を切り裂き、二台の自転車はさらに南へとペダルを進めた。




