第132話:チタンの接手、海を越えて届いた削り出しの熱
宇野港の海岸沿い、古い倉庫を改装したハンドメイドバイシクル工房『ムトウ・サイクル』。
ガラス戸を開けると、機械油のツンとした匂いと、トーチランプの熱気が漂ってきた。
壁一面には、細身で美しいクロモリ(モリブデン鋼)のパイプや、スポークを組み上げたばかりのホイールが整然と並んでいる。
「武藤の親父さん、いるかい?」
ラ・マルが声をかけると、奥の作業台から、革のエプロンをつけた白髪の老ビルダーが顔を上げた。
武藤、六十八歳。元競輪のトップレーサーであり、今は競輪選手や熱狂的なサイクリストのためにフルオーダーのロードバイクを組む、日本屈指のフレーム職人だ。
「おお、ラ・マルか。また珍しい客を連れてきたな。……そっちの兄ちゃんに乗せるバイクかい?」
「そうさ! 瀬戸内の海風を一番気持ちよく切り裂ける、とびきりの一台を頼むよ!」
武藤が作業台から引っ張り出してきたのは、深みのあるブリティッシュグリーンに塗装された、端正なホリゾンタル(水平)フレームのロードバイクだった。
だが――デザイナーとしての鋭い観察眼を持つ蓮司の目は、車体の中央、ハンドルを支えるヘッドチューブの接合部に釘付けになった。
「……あっ! このラグ(接手金具)……!」
蓮司は思わず身を乗り出し、金属の表面を凝視した。
通常のクロモリフレームは、鉄のラグにパイプを差し込み、銀ロウや真鍮ロウで溶接する。
だが、そのバイクのヘッドチューブに使われていたのは、鉄ではない。
鈍く青みがかった銀色の光沢を放つ、航空宇宙素材――超々難削材である『純チタン』のブロックから、丸ごと一体で削り出された特殊な接手だった。
ツールマーク(切削痕)は完全にミクロン単位でコントロールされ、曲面はまるで水滴が滑り落ちるかのように滑らか。溶接の継ぎ目すら見当たらない。
「親方……このチタンパーツ、一体どこで作られたんですか? こんな複雑な立体削り出し、最新の五軸マシニングセンタでもプログラミングに何日もかかる……いや、これは手動の汎用旋盤で、職人の手感覚で削り出されていますよね!?」
武藤は目を丸くし、それから豪快に破顔した。
「ほう! 兄ちゃん、ただの観光客じゃねえな! 一目で手送りの削り出しだと見抜いた奴は、お前が初めてだ!」
武藤は愛おしそうにチタンの金具を指で弾いた。
「実はな、数日前、島根の津和野で農機具屋をやってる古いダチから送られてきたんだよ。『下関の凄腕の旋盤職人が、SLの部品を直したついでに削ってくれた、とんでもねえチタン金具がある。お前の自転車のフレームに使ってみろ』ってな」
「下関の……旋盤職人……!」
「ああ。工藤っていう若い三代目か四代目の職人らしい。この小さなチタンの塊がな、路面からの不快な微振動を驚くほどしなやかに吸収して、推進力に変えてくれるんだ。……顔も名前も知らねえが、こいつを削った奴の魂が、指先を通してビシビシ伝わってきやがる」
蓮司の背筋を、激しい電流が駆け抜けた。
下関の町工場で、誰にも知られずに旋盤を回す職人。
津和野の農機具屋。
そして、この宇野港の自転車工房。
見ず知らずの人々の情熱と誇りが、一本の金属のパーツを通じて、海を越え、レールを越えて、奇跡のようにこの自転車へと結実している。
「……デザインも、同じなのかもしれない」
蓮司は呟いた。
「俺がパソコンの画面に向かって引いた一本の線も、誰かの手へ届き、誰かの人生を動かすはずだったんだ。……数字ばかり見ていた俺は、その線の向こうにいる生身の人間の熱を、何一つ信じていなかったんだ……」
「気づいたかい、蓮司君」
ラ・マルが優しく微笑み、ヘルメットを蓮司に手渡した。
「さあ、この魂のロードバイクに跨がりなよ! 次は、君の目をさらに覚ます『奇跡の紙』に会いに行こう!」
ペダルを踏み込んだ瞬間、チタン金具が海風の振動を受け止め、吸い付くように前へと加速していった。




