第013話:伯備線の深い霧と、振り子電車の揺れ
列車は、中国山地の懐深くへと潜り込んでいた。
車窓のすぐ真下を、エメラルドグリーンの水をたたえた高梁川が蛇行しながら並走している。雨上がりの山肌からは白い霧が立ち上り、杉や桧の深い緑が幾重にも重なって視界を覆っていた。
「ここから先が、山陰への険しい関門――伯備線ですわ」
雅人の部屋のドアが開き、サンライズが小さな籠を手に現れた。
「少しお腹が空いていらっしゃいませんこと? 備中高梁の駅で、少し寄り道をして仕入れてまいりましたの」
籠の中から取り出されたのは、厚手のガラス瓶に入った白い牛乳と、素朴な紙袋に入った丸いパンだった。
「蒜山高原のジャージー牛乳と、作州黒豆を練り込んだ手捏ねパンですわ」
「蒜山の牛乳……! 濃厚だって聞いたことがあります」
「ええ、黄金のミルクと呼ばれておりますのよ。どうぞ」
紙のキャップを外し、冷たい瓶に口をつける。
ごくり、と喉を鳴らして飲み干した瞬間、雅人は目を丸くした。
「……濃い……! でも、全然しつこくない」
生クリームのようにこってりとしたコクがありながら、後味は驚くほどすっきりと甘い。大自然の放牧地で青草を食んだジャージー牛の、滋味あふれる豊かな脂の甘みが広がる。
続いて、大粒の黒豆が顔を覗かせるパンをちぎって口に放り込む。
もっちりとした小麦の生地に、ほんのり甘く煮含められた丹波種黒豆の香ばしさと優しい甘さが絶妙に調和していた。噛み締めるたびに、大地のエネルギーが全身に行き渡っていく。
「ふふ、良いお顔で召し上がりますこと」
サンライズは嬉しそうに目を細めた。
「大地の恵みをそのままいただくこと。それだけで、人間は随分と生き返るものですわ」
ガタン、と車体が大きく左へ傾いた。
遠心力で身体がシートに押し付けられる感覚。
「おっと……結構揺れますね」
「伯備線はカーブの連続ですから。この車両は振り子式ではありませんけれど、私の足腰はしっかり山道に合わせて踏ん張っておりますのよ」
サンライズがいたずらっぽくウインクする。
列車は新見を過ぎ、いよいよ岡山県と鳥取県の県境――谷田峠の長いトンネルへと突入した。
車輪が軋む甲高い音が響き、トンネル内の蛍光灯が窓を高速で叩いていく。
そして――暗闇を抜けた瞬間。
「あ……」
雅人は思わず声を漏らした。
空気の色が、明らかに変わっていた。
瀬戸内のからりと晴れ渡った光とは違う。水分をたっぷりと含んだ、どこか神秘的で柔らかな光と、低く垂れ込めた雨雲。
遠く北東の空には、残雪を山頂に抱き、雲をまとった伯耆富士――大山の巨大な稜線が、幽玄な姿を現していた。
「山陰に入りましたわ」
サンライズが静かに告げた。
「神話の息づく、西の果ての海と湖の国へようこそ」
伯耆大山駅で山陰本線へと合流し、列車はいよいよ最終目的地である出雲路へと、スピードを上げて走り出した。




