第127話:岡山駅五番線、モノトーンの旅行鞄
山陽新幹線を降りた岡山駅の跨線橋。
初夏の眩い日差しがガラス屋根から降り注ぐ中、瀬川蓮司は、液晶画面のブルーライトで焼き切れたような両目をしばたたかせながら、当てもなく在来線の連絡通路を彷徨っていた。
二十六歳。
着慣れたはずの黒いリネンシャツの袖をまくり、手ぶらで歩く。
財布と文庫本一冊だけ。
東京・渋谷のオフィスに、社用のノートパソコンも、絶え間なくチャット通知を飛ばし続けるスマートフォンも、すべて置き去りにして逃げてきた。
「……数字、数字、数字……」
乾いた唇から、自嘲の息が漏れる。
蓮司は、都内の大手WEB広告代理店で、気鋭のUI/UXデザイナーとして働いていた。
学生時代は油絵とポスターデザインに熱中し、全国コンペで数々の賞を総なめにした。「デザインの力で、人の心を豊かにしたい」「世界に一筋の光を届けたい」――そんな青臭い情熱を抱いて飛び込んだ業界だった。
だが、そこで待っていたのは、アートとは対極にある「デジタルの家畜工場」だった。
求められるのは、美しさでも、余白の心地よさでもない。
クリック率(CTR)。購入率(CVR)。離脱率。A/Bテスト。
『瀬川、この余白は何だ? スカスカじゃないか。余白なんて売上に貢献しないんだよ! 文字をもっと大きくして、赤と黄色の派手な帯を入れろ! 「今すぐ購入」のボタンを三倍に膨らませろ!』
上司の怒鳴り声が、今も耳の奥にこびりついて離れない。
先週、一年間心血を注いできた老舗クラフトビールメーカーのブランディングWEBサイト。
蓮司が歴史と職人の想いを丁寧に紡ぎ、美しい写真と詩的な余白で構成した画面は、役員プレゼンの直前で冷酷に却下された。
『データが出たぞ。AIが自動生成した「半額セール!残りわずか!」の煽りバナーの方が、クリック率が0.2%高かった。こっちでいく。瀬川、お前のポエムは現場の邪魔なんだよ』
何かが、プツリと切れた。
自分が作っていたのは、デザインではなかった。
ただ人の欲望を煽り、指先を反射的に動かさせるためだけの、消費されて一秒で消えるデジタルのゴミだった。
「俺のデザインなんて、ただのノイズだ。……もう、何も見たくない」
気づけば、東海道・山陽新幹線の自由席に飛び乗っていた。
西へ、西へ。東京から遠く離れた場所へ。
岡山駅のコンコース。階段を下りた五番線ホームの片隅の木製ベンチに腰を下ろし、蓮司は頭を抱えた。
その時だった。
ズボンのポケットの奥で、何かがパチッと静電気のような温かい熱を帯びた。
「……ん?」
指先を突っ込むと、一枚の紙片が触れ合った。
新幹線の切符ではない。
厚みのある、昔ながらの活版印刷用の硬券切符。
行先も、日付も、金額もない。
ただ中央に、深いアクアブルーのインクで、こう刻まれていた。
――『風の切符』
「風の……切符……?」
蓮司が首を傾げた、その瞬間。
五番線のレールの上を、軽やかなオルゴールのような電子警報音が走り抜けた。
タタン、タタン……。
滑り込んできたのは、無機質な銀色の電車ではなかった。
白と黒の洗練されたモノトーン。
フランスのクラシックな旅行鞄を思わせる、太い黒のトリミングラインと、木製の留め具のイラスト。
窓枠には、まるで海外のカフェのテラス席のようなお洒落なストライプ。
――『La Malle de Bois』。
フランス語で「木製の旅行鞄」を意味する、観光列車。
プシューッ、と開いた乗降扉から、一人の少女が軽やかにステップを降りてきた。
白と黒のモノトーンのフレンチマリンスタイル。
太い黒ボタンの並ぶトレンチ風ショートジレに、ボーダーのカットソー、細身のクロップドパンツ。
頭には、斜めにちょこんとのせた黒いベレー帽。
小脇には、真鍮のバックルがついたアンティークな木製トランクを大切そうに抱えている。
胸元には、自転車の車輪を象った銀のブローチ。
そして、その双眸――瀬戸内海の初夏の海のように、どこまでも澄み切ったアクアブルーの瞳が、蓮司を面白そうに見つめていた。
「ハロー、迷子のアートディレクター君!」
鈴を転がすような、軽快でいたずらっぽい声が響いた。
「そんな四角いディスプレイみたいな顔してため息ついてたら、せっかくの初夏の青空がグレーに濁っちゃうよ?」
「え……? 君、は……?」
「僕は『ラ・マル』! 瀬戸内の風とアート、そして自由な寄り道を詰め込んだ、鉄路の旅行鞄さ!」
少女――ラ・マルはトランクをポンと叩き、蓮司の鼻先に人差し指を突きつけた。
「その風の切符を持ってるってことは、君、人生のキャンバスに余白が欲しくてたまらないんだろ? ……乗りなよ! 宇野みなと線を通って、直島と現代アートの海へ、思いっきり寄り道しに行こうじゃないか!」
有無を言わせぬ明るい笑顔に手を引かれ、蓮司はモノトーンの旅行鞄の中へと、吸い込まれるように乗り込んでいった。




