第126話:夜の終わり、新しい朝を告げる星図
目を覚ました時、視界いっぱいに広がっていたのは、夕暮れに染まり始めた日本海の茜色の空だった。
冴子はゆっくりと身体を起こした。
頭が、軽い。
半年間、脳の芯にこびりついていた重い鉛の塊が、綺麗さっぱり消え去っている。
瞳は澄み渡り、頬には健康的な血色が戻っていた。
自分の両手を胸の前に掲げてみる。
ピタリと、震えが止まっていた。
「……おはよう、冴子さん」
隣に座っていたぎんがが、嬉しそうに目を細めて微笑みかけた。
「よく眠れたね。三時間も、ぐっすり眠っていたよ」
「私……眠れたんだ。薬も飲まずに……こんなに深く眠ったの、何年ぶりだろう」
冴子の口元から、自然と笑みがこぼれた。
* * *
出雲市駅のプラットホーム。
夕方の折り返し準備を終えた『WEST EXPRESS 銀河』の瑠璃色の車体が、西日に照らされて美しく輝いていた。
大阪行きの特急『やくも』へ乗り換える冴子を見送るため、ぎんががホームに立っている。
「冴子さん。大阪へ戻ったら、どうするの?」
「病院へ行くわ」
冴子は、胸ポケットに大切にしまった千人針のお守りに手を当てた。
「院長に頭を下げて、復職の手続きをお願いする。……もう、逃げないわ。あの子のお母さんがくれた言葉を胸に、私はこれからも、命の現場で戦い続ける」
「うん。あなたのその手はね、これからもたくさんの命を抱きしめる手だよ」
その時だった。
冴子のトレンチコートの内ポケットが、ポッと温かい瑠璃色の光を放ち始めた。
取り出してみると、あの『風の切符』だった。
厚みのある硬券の表面に、夜空の星屑が集まり、鮮やかな円形のスタンプが浮かび上がってくる。
満天の天の川と、優しく微笑む三日月をあしらった、神秘的な印影。
――[山陰線・出雲市/下車前途無効・星屑の安息 完了]
文字が完全に定着した瞬間、切符は役目を終えたかのように、静かに光を収めた。
「……ありがとう、ぎんが。あなたに会えて、本当によかった」
「ううん。あなたが夜行列車に乗ってくれたから、私も幸せだったよ。……いってらっしゃい、篠原先生!」
特急やくもの発車ベルが鳴り響く。
冴子はステップを上がり、窓から大きく手を振った。
ホームの向こうで、ぎんがが真鍮の星図ランタンを揺らしながら、いつまでも見送ってくれていた。
* * *
冴子を見送ったぎんがは、銀河のフリースペースへと戻り、革表紙のスケッチブックを開いた。
そこには、昨夜、やまぐちから受け取った『半欠けの星』の図が描かれていた。
ぎんがは万年筆を手に取り、その星の隣に、もう一つの新しい『二つ目の星』を丁寧に描き足した。
「一つ、また一つ……星が集まっていくね。……ねえ、ミズカゼ様」
窓の外の夕空を見つめるぎんがの瞳に、遠い光が宿る。
その頃、特急やくもで山陽路へと戻り、岡山駅へと滑り込んだ冴子の視線の先――。
対向ホームの五番線に、見慣れぬ不思議な列車が停車していた。
白と黒の洗練されたフレンチマリンの車体。
車内には木製のトランクが積まれ、デッキには最新のロードバイクが固定されている。
――観光列車『ラ・マル・ド・ボァ』。
その扉の前に、ベレー帽を小粋にかぶり、トレンチ風ジレをまとった快活な少女が立っていた。
自転車の車輪を模したブローチを光らせた鉄娘――『ラ・マル』だ。
ラ・マルは、去りゆく特急やくもの窓に冴子の姿を認めると、パッと白い歯を見せ、楽しげにウインクを投げてみせた。
夜の安らぎから、光あふれる瀬戸内のアートと風の旅へ。
第二周遊の鉄路は、休むことなく、次の迷い人を乗せて走り出そうとしていた。
(第十二章 了/第十三章『ラ・マルと風のパレット』へつづく)




