第124話:出雲大社の神楽殿、涙の千人針とお守り
午前九時。終着駅・出雲市駅に降り立った冴子は、ぎんがに手を引かれ、神話の息づく大社――出雲大社の境内へと足を踏み入れていた。
樹齢数百年の老松が立ち並ぶ参道。
初夏の風が枝葉を揺らすたび、厳かな神聖な木漏れ日が玉砂利の上に揺らめいている。
拝殿の奥、神楽殿の前に立った時、冴子は圧倒的な威容に息を呑んだ。
正面に掲げられた、日本最大級の大注連縄。
長さ十三・六メートル、重さ五・二トン。
無数の稲藁を何重にも撚り合わせた巨大な注連縄は、あらゆる災厄を断ち切り、人々の縁を結び合わせる神の結界そのものだった。
「……縁結びの神様、か」
冴子は注連縄を見上げ、力なく微笑んだ。
「私のような、人の命の縁を断ち切ってしまった医者が、ここに来てよかったのかな……」
「断ち切ってなどいないよ」
ぎんがが、静かに首を横に振った。
「冴子さん。あなたのカバンの底にあるもの……。半年間、ずっと見つめることができなかったものを取り出してごらん」
冴子の身体が、ピクリと凍りついた。
なぜ、ぎんががそれを知っているのか。
震える手で、革のトートバッグの底に手を差し入れる。
指先が触れたのは、赤い木綿の布で丁寧に包まれた、手のひらサイズの小さな包みだった。
――あの日。
八歳の男の子の心肺蘇生を中止し、死亡確認を告げた手術室の前。
崩れ落ちる両親に頭を下げた冴子に、泣き腫らした母親が、震える手で押し付けてきた包み。
『篠原先生……これ、あの子に持たせていたお守りなんです。先生に……持っていてほしいんです……』。
開けることができなかった。
中を見れば、激しい怨嗟や非難が書かれているのではないかと恐ろしくて、病院のロッカーの奥に、そしてカバンの底に封印し続けていたのだ。
「……開けてごらん」
ぎんがが、背中から優しく背中を押す。
「逃げなくていいよ。神様が、ちゃんと見ていてくれるから」
冴子は膝を折り、玉砂利の上に座り込んだ。
赤い木綿の紐を解く。
現れたのは――白いさらし布に、赤い糸で一針一針、千個の結び目が縫い込まれた、手作りの『千人針のお守り』だった。
息子の無事を祈り、母親が親族や近所の人々に頼んで縫い集めた、母親の愛の結晶。
そして、その布の間に、四つ折りにされた一枚の便箋が挟まれていた。
鉛筆の、震える文字。
『――篠原先生へ。
あの日、先生が血まみれになりながら、何度も何度もあの子の心臓を押し続けてくれた姿を、私はガラス越しに見ていました。
先生の白衣が真っ赤に染まり、涙をこぼしながら「諦めないで!」と叫んでくれたこと、一生忘れません。
あの子は助かりませんでした。
でも、あの子の最後の瞬間、あんなにも必死に命を守ろうとしてくれた先生がそばにいてくれたこと、母親として、本当に救われました。
先生、どうかご自分を責めないでください。
先生がいてくれたから、あの子は一人で逝かずに済みました。
本当に、本当にありがとうございました。
どうか、お身体を大切にして、これからも他の子どもたちを助けてあげてください』
「……あ……ああ……っ」
便箋を持つ冴子の指先が、激しく震えた。
文字が、溢れ出す涙で滲んで読めなくなっていく。
「恨まれて……なかった……」
喉から、引き裂かれるような慟哭が漏れた。
「私を……許してくれていたんだ……! あの子のお母さんは……私に、ありがとうって……!」
境内の玉砂利に突っ伏し、冴子は千人針とお守りを胸に強く押し当てて、声を上げて泣き崩れた。
半年間、堰き止められていたすべての涙。
自責の念、孤独の恐怖、救えなかった無力感――そのすべてが、出雲の大地に吸い込まれるように、激しい雨となって流れ出していく。
ぎんがが、そっと隣に膝をつき、泣きじゃくる冴子を両腕で包み込んだ。
星屑のローブポンチョが、冴子の背中を温かく包む。
「あなたはね、命から逃げなかったんだよ」
ぎんがの声が、神楽殿の静寂に優しく響いた。
「最後まで命を抱きしめたからこそ、その祈りは、ちゃんとあのお母さんにも届いていたんだよ。……もう、自分を責めなくていい。もう、眠っていいんだよ、冴子さん」
大注連縄の向こうから、一陣の神聖な風が吹き抜けた。
初夏の青葉の香りを孕んだ風が、泣き濡れた冴子の髪を、優しく撫で上げていった。




