第123話:宍道湖の朝もや、黄金色に煮立つしじみ粥
午前六時半。
松江駅を通過した『WEST EXPRESS 銀河』の車窓左手には、息を呑むような幻想的な水の世界が広がっていた。
汽水湖・宍道湖。
朝の冷気と湖水が触れ合い、水面全体から白い湯気のような『朝もや』が立ち込めている。
静まり返った湖上に、ぽつり、ぽつりと浮かぶ無数の小さな和船。
漁師たちが舳先に立ち、長さ数メートルの長い竹竿の先に鉄の爪をつけた『鋤簾』を湖底に差し入れ、手繰り寄せている。
宍道湖の朝の風物詩――大和しじみ漁の風景だった。
「きれい……。まるで水墨画の世界ね」
冴子が窓辺に佇むと、食堂車のカウンターから、芳醇な出汁の湯気が漂ってきた。
「冴子さん、朝ごはんだよ。宍道湖の朝の恵みをいただこう」
ぎんがが運んできたのは、小さな黒い萬古焼の土鍋だった。
木製の鍋敷きの上に置かれ、蓋の小さな穴からプシューッと勢いよく蒸気が吹き出している。
パカッ、と蓋を開けた瞬間、冴子の鼻腔を満たしたのは、これまでに嗅いだことのないほど濃厚な貝の磯の香りと、炊き立ての米の甘い薫香だった。
「……しじみ粥?」
「うん。今朝獲れたばかりの、宍道湖特産の大粒の大和しじみと、奥出雲の棚田で育った『仁多米』を土鍋でコトコト炊き上げた、銀河特製の朝粥だよ」
土鍋の中央には、黒曜石のように艶やかな漆黒のしじみの殻が、山盛りに盛り付けられている。
スープは透明ではない。
しじみから溶け出した濃厚なグリコーゲンとタウリン、コハク酸が乳化し、白濁した黄金色のポタージュのようなとろみを帯びていた。
その上に、刻みたての瑞々しい三つ葉と、極細の針生姜が鮮やかな緑と白の彩りを添えている。
「熱いうちに、フウフウしながら召し上がれ」
冴子は陶器のレンゲを取り、とろとろに炊かれた仁多米の粥をすくい上げた。
口の中へと運ぶ。
「――ッッ!!」
瞬間、冴子の全身の神経が、カッと目を見開いた。
何という濃厚さだろうか。
貝の身を何十個、何百個と凝縮したような、爆発的なアミノ酸の旨味。
えぐみや雑味は一切ない。
淡水と海水が絶妙に入り混じる宍道湖の肥沃な底土が育んだ大和しじみのエキスが、奥出雲の寒暖差で育った仁多米の一粒一粒の奥深くまで完全に染み込んでいる。
米は潰れすぎず、適度な粒感を残しながら、口の中でふわりと溶けていく。
そして、ぷっくりと太ったしじみの身を箸でつまみ、口に含む。
小粒なしじみとは別次元の、ムチッとした貝柱の弾力。
噛み締めるたびに、甘露のようなエキスがジュワリと溢れ出す。
そこに絡む三つ葉の青い清涼感と、針生姜のピリッとした辛味が、濃厚なしじみの余韻をスッキリと引き締めていた。
「……あ、ああ……」
冴子の喉から、声にならない嗚咽が漏れた。
レンゲを持つ手が止まらない。
二口、三口と胃に流し込むたびに、半年間の不眠と絶望でズタズタに擦り切れていた肝臓と、自律神経の網の目が、まるで乾ききったスポンジが水を吸い上げるように、急速に潤されていくのが分かった。
「五臓六腑が……泣いているみたい……」
大粒の涙が、ぽたぽたと土鍋の縁に落ちる。
「しじみはね、水底の泥の中で、水を綺麗に濾過しながら生きているんだよ」
ぎんがが、優しく微笑みながら言った。
「濁った水を吸って、澄んだ水にして吐き出す。……あなたの身体の濁りも、心の泥も、全部このしじみたちが吸い取って、洗い流してくれるからね」
土鍋の底をさらうまで、冴子は一心不乱に食べ続けた。
最後の一粒を飲み干した時、全身からじんわりと心地よい汗が吹き出し、頭の奥底を締め付けていた重い鉛の輪が、完全に消え去っていた。
朝霧が晴れ渡った宍道湖の向こうに、終着駅・出雲の街並みが見えてきた。
そして、神話の都の奥深くで、冴子の魂を解き放つ最後の扉が開かれようとしていた。




