第122話:安来の鉄と刃、医者のメスと職人の命
山陰本線を西へ走る銀河は、島根県の東端――安来駅へと滑り込んだ。
安来節のどじょうすくいで知られるこの町は、古代から現代に至るまで、日本最高峰の製鉄技術が息づく「鉄の都」である。
中国山地の砂鉄と木炭を使い、三日三晩不眠不休で燃やし続ける『たたら製鉄』。
そこから生まれる純度九九・九パーセントの奇跡の鋼――『玉鋼』。そして、現代の外科手術用メスや超精密刃物にも使われる世界最高峰の特殊鋼『ヤスキハガネ』の故郷。
駅の停車時間、ぎんがに案内されて立ち寄ったのは、線路沿いに煙を上げる古い鍛刀場だった。
土間の火床から、真っ赤に熱せられた鋼の棒が引き出される。
カーン! カーン! カーン!
白髪の老刀匠と若い弟子が、大槌と小槌をリズミカルに振り下ろす。
千度を超える鋼が叩かれるたび、真っ赤な火花が星屑のように土間に飛び散り、キリッと張り詰めた空気が肌を刺す。
「……見事な、鍛錬だ」
冴子は思わず立ち止まり、息を呑んだ。
鋼を叩き、伸ばし、真ん中から折り返して再び叩く。
十数回も繰り返される折り返し鍛錬によって、不純物が叩き出され、数千層ものミクロン単位の鋼の層が重なり合っていく。
「おや、銀河のお客さんかい」
老刀匠が手を止め、首の手ぬぐいで汗を拭いながら微笑んだ。
「綺麗な手ぇをしとるな。だが……指先が強張っとる。何か重いもんを抱えとる手だ」
「……外科医です」
冴子は自らの両手を見つめた。
「メスを握る医者でした。……でも、私は半年前に、患者の命を救えませんでした。私のメスは……あの子の胸を開いて、苦しめて……ただ死なせてしまった。私の手は、人を傷つけただけの手です」
震える声で吐き出した告白。
老刀匠は黙って火床の前に立ち、水桶から一本の研ぎ上がったばかりの小刀を取り出した。
冴子の手のひらに、そっと柄を握らせる。
ずっしりとした重み。
冷徹な刃文が、朝の光を浴びて青白く底光りしている。
だが、その冷たさの奥から、職人が千回、万回と叩き込んだ魂の温もりが、直に伝わってくるようだった。
「先生。刃物ってのはな、人を傷つけるためにあるんじゃねえんだよ」
老刀匠は、深く刻まれた皺を緩めて言った。
「日本刀はな、古来より『破邪顕正』の神器だ。邪悪な病や災いを断ち切り、命を守るために神仏に捧げられてきた。お前さんが握ってきたメスも、全く同じだ。病巣を断ち、悪しき血を止め、命を生き返らせるための神聖な刃だ」
「でも……救えなかったんです……!」
「結果がどうであれ、お前さんはその手を引っ込めなかったんだろ?」
老刀匠の鋭い眼光が、冴子の瞳を射抜いた。
「血まみれの傷口に飛び込み、誰よりも近くで命の重みを引き受けたんだろ? ……傷口を開く痛みを恐れて逃げ出す奴に、本当の刃物を握る資格はねえ。お前の手は、逃げなかった手だ。その手の平にある傷と震えこそが、命の重みを知る本物の医者の証じゃねえのかい」
命の重みを、引き受けた手――。
小刀の重みが、冴子の指先に吸い付くように馴染んでいく。
自分は、失敗したのではない。
あの嵐の夜、自分はあの八歳の男の子の命と、全身全霊で対峙したのだ。
逃げずに、最後まで、あの子の心臓をその手で抱きしめ続けたのだ。
「……ありがとうございました」
冴子は小刀を両手で返し、深々と頭を下げた。
駅へ戻る足取りは、京都駅を出た時とは比べ物にならないほど、大地をしっかりと踏みしめていた。
そして、列車は朝霧烟る宍道湖の湖畔へと差し掛かっていた。




