第121話:夜明け前の大山、星屑のランタンと半欠けの記憶
午前四時半。
東の空の縁が、重く沈んでいた漆黒から、かすかに群青、そして透明感のある淡い藍色へと、ゆっくりとグラデーションを描き始めていた。
夜と朝が交差する、一日の中で最も清浄で、最も静謐な時間帯。
伯耆大山駅の手前。
フリースペース『プレセア』の大きな車窓の右手に、突如として、圧倒的な存在感を誇る巨峰のシルエットが姿を現した。
中国地方の最高峰――霊峰・伯耆大山。
標高千七百二十九メートル。見る方角によっては富士山のように端正な円錐形を描き、またある方角からは荒々しい大岩壁を剥き出しにする「出雲富士」。
夜明け前の青白い薄明かりの中に浮かび上がる残雪の稜線は、神話の時代から人々の祈りを受け止めてきた神の山そのものの威厳を放っていた。
「……大山だ」
冴子は窓に額を近づけ、息を呑んだ。
「大学時代、登ったことがある。あんなに高くて、大きかったんだ……」
「大山はね、夜明けの光を一番最初に浴びる山なんだよ」
ぎんがが、テーブルの上にコトッと真鍮のランタンを置いた。
その時、冴子の視線が、ランタンの円形の真鍮台座の縁に釘付けになった。
薄明かりに照らされた金属の表面に、見覚えのある彫り込みがあったのだ。
「……あっ!」
冴子は思わず身を乗り出した。
「このマーク……!」
台座の縁に、鋭い鏨で深く刻み込まれていたのは、奇妙な**「半欠けの星」**だった。
五芒星の右側半分だけが描かれ、左側は意図的に切り落とされたような形。
「ぎんが、この刻印……! 私、見たことがあるわ。数日前、医学雑誌の合間に読んだ地方ニュースで……下関の精密金属加工工場の四代目職人が、SLやまぐち号の故障を直したっていう記事。そこに写真が載っていた、曾祖父の真鍮歯車に刻まれていた星のマークと……全く同じ形だわ!」
「ふふ、よく気がついたね」
ぎんがは星屑のナイトキャップをそっと持ち上げ、愛おしそうにランタンの星を指先でなぞった。
「そうだよ。下関の工藤恭平さんの曾祖父・金蔵さんがね、昔、このランタンを作ってくれたの」
「金蔵さんが……?」
「うん。昼の炎と黒煙をあげて急坂を越える、やまぐちお姉ちゃん。そして、夜の静寂を守り、迷い人を癒やす、私。……金蔵さんは言っていたよ。『昼の光と、夜の光。どちらか一つでは、人は生きていけない。太陽が沈めば星が瞬き、夜が明ければ太陽が昇る。二つが合わさって、初めて一つの円環になるんだ』って」
ぎんがは、ランタンの半欠けの星を見つめながら、静かに語りかけた。
「ねえ、冴子さん。どうしてこの星は、半分だけだと思う?」
「それは……未完成だから?」
「いいえ。**『欠けているからこそ、誰かと手を繋げる』**からだよ」
「欠けているからこそ……」
「最初から完璧な丸や、隙のない完全な星だったら、他の誰とも噛み合わないでしょう? 欠けている余白があるから、やまぐちお姉ちゃんの歯車と私のランタンが一つになれる。……人間も、同じなんじゃないのかな」
ぎんがの言葉が、冴子の胸の最も柔らかい場所を、優しく貫いた。
「冴子さんはね、完璧になろうとしすぎていたんだよ。すべての命を救う、絶対に失敗しない神様になろうとしていた。……でも、人間には救えない命がある。どんな名医だって、死神の鎌を完全に払いのけることはできない。欠けていていいんだよ。弱くていいんだよ。……その欠けた傷口があるからこそ、あなたは他人の痛みに寄り添える、本当のお医者さんになれるんだから」
欠けていていい。
弱くていい。
半年前、あの子を救えなかった自分を、冴子は「死刑囚」のように罰し続けていた。
自分は無力だ、自分は欠陥品だ、自分には生きている資格がないと。
だが、その欠落こそが、誰かの痛みを抱きしめるための「余白」だったというのか。
夜明けの大山の稜線から、一筋の金色の陽光が射し込んできた。
瑠璃色の車内が、淡い朝の光で満たされていく。
列車は山陰の鉄の都――安来へと近づいていた。
命を救う刃の意味を問う、次なる出会いが待っていた。




