第120話:深夜三時の生山駅、ホームに灯る薬膳出汁
午前三時十五分。
岡山県から鳥取県へと県境を越えた『WEST EXPRESS 銀河』は、中国山地の懐深くに抱かれた木造の小駅――生山駅のホームへと滑り込んだ。
通常の特急ならば通過してしまう真夜中の無人駅。
だが、銀河はこの駅で、三十分間という異例の長い停車時間を取る。
「冴子さん、外へ出てごらん。冷たい空気を吸って、温かいものをいただこう」
ぎんがに促され、コートを羽織った冴子は、重い足取りでホームへと降り立った。
標高四百メートルの山あいの深夜。
肌を刺すような高原の冷気が、冴子の火照った頬をキュッと引き締める。
見上げれば、都会では決して見ることのできない満天の星空。天の川の銀の砂粒が、漆黒の夜空を埋め尽くすように輝いていた。
そして――。
木造駅舎の改札口の前に、ぽつりと揺れる二筋の温かな湯気があった。
「ようこそ生山へ! 夜行の旅、寒かったでしょう!」
手ぬぐいをかぶり、袢纏を羽織った地元の女性たちが、大鍋を前に満面の笑みで銀河の乗客たちを出迎えていた。
漂ってきたのは、思わず足が止まるほど濃厚で、奥深い出汁の香り。
生姜の清涼な香気と、焼き蟹の甲羅の芳ばしさ、そして昆布のまろやかな甘みが、深夜の澄み切った冷気の中で立ち上っている。
「お嬢さん、身体が冷え切っとるな。これ、飲んでいきんさい」
老女が、使い捨ての小さな木目調のカップに、黄金色に透き通る熱々のスープをたっぷりと注いで手渡してくれた。
中には、極小のサイコロ状に切られた柔らかな小カブと、薄切りの牛蒡、そして針生姜が浮かんでいる。
「これは……?」
「銀河の夜行便のためだけに、山陰と丹波の料理人さんたちが知恵を絞って仕込んでくれた『特製薬膳出汁スープ』だよ」
ぎんがが、真鍮のランタンを足元に置きながら、愛おしそうに語った。
「日本海の香住で母の出汁を取り戻した吉野涼太さんと、丹波の黒い土の命を知った栗山陽介さん。……二人の料理人がね、深夜の伯備線を越える旅人たちの凍えた胃袋を温めるために、香住ガニの焼き殻と利尻昆布で引いた一番出汁に、丹波の無農薬生姜と冬根菜を炊き合わせてくれたの」
「香住の出汁……丹波の、野菜……」
冴子は両手でカップを包み込んだ。
立ち上る湯気を胸いっぱいに吸い込み、ふうふうと息を吹きかけながら、そっと一口啜った。
「――っ……!!」
刹那、冴子の目から、ポロリと一筋の雫が零れ落ちた。
染み渡る。
熱い液体が舌を通過した瞬間、香住ガニの甲羅から抽出された濃密なキチン質の旨味と、昆布のアミノ酸が、まるで点滴のように直接血管へと吸い込まれていく。
塩分は極限まで控えめなのに、旨味の輪郭が驚くほどくっきりと立ち上がっている。
そして、丹波の生姜と小カブの優しい甘みが、荒れ果てていた冴子の胃壁を、温かい毛布のように包み込んでいくのだ。
二口、三口。
トロリと柔らかく煮崩れた小カブを噛み締める。
生姜の温熱効果が、あっという間に指先、足先、そして凍りついていた心臓の周りへと広がり、全身の毛穴から心地よい温もりが立ち上った。
「……温かい」
冴子の声が、震えていた。
「私……何ヶ月も、温かいものを喉に通していなかった。冷え切ったコンビニのおにぎりや、冷たいゼリー飲料を流し込むだけで……食べものの温もりなんて、すっかり忘れていた……」
「食べものはね、命の温もりそのものなんだよ」
ぎんがが、冴子の隣で静かにスープを口に運んだ。
「誰かが畑で泥にまみれて育てた野菜と、誰かが海で命がけで獲ってきた蟹を、料理人が心を込めて引いた出汁。……あなたが夜の世界で必死に戦っている間も、誰かがあなたのために火を起こし、出汁を引いて待っていてくれたんだよ」
星屑が降り注ぐ深夜三時の無人駅。
熱い薬膳出汁を最後の一滴まで飲み干した時、冴子の手の震えは、完全に止まっていた。
胃の腑から立ち上る生命の熱が、彼女を縛り続けていた死の冷気を、確実に溶かし始めていた。
発車のベルが、山あいの静寂にチリンと鳴り響く。
銀河は再び動き出し、夜明け前の霊峰――伯耆大山の裾野へと向かって、星屑のレールを進んでいった。




