第119話:漆黒の高梁川、闇を恐れる心電図の幻聴
午前二時半。
岡山を過ぎ、倉敷駅の分岐器をガタゴトと渡った『WEST EXPRESS 銀河』は、平野の明かりを背にして、北へと進路を変えた。
山陽本線から、中国山地を貫く陰陽連絡の山岳路線――伯備線へ。
線路の両脇から、巨大な漆黒の断崖が迫ってきた。
高梁川の激流が穿った深い渓谷。
街灯の光は完全に途絶え、民家の窓明かりすら一つもない。
車窓の外は、まるでインクを流し込んだような、底知れぬ、重厚な「完全な暗闇」だった。
時折、川面の白波が一瞬だけ白く泡立ち、すぐに闇の中へと呑み込まれていく。
「……っ、う……っ」
プレセアのソファに座っていた冴子の喉から、引き攣った呻きが漏れた。
窓の外の闇を見つめた瞬間、脳髄の奥底に張り巡らされていた防波堤が、音を立てて決壊したのだ。
冷や汗が、背筋を滝のように滑り落ちる。
瞳孔が開き、指先が凍りつき、肺が酸素を拒絶して激しく喘ぎ始める。
「暗い……! 何も見えない……!」
冴子は自らの胸ぐらを爪が食い込むほど強く掴み、ソファの上で丸まった。
――あの日と同じだ。
胸を切り開き、術野に吸引管を突っ込んでも、湧き出す血液で何も見えなかった。
暗闇。血の海。
麻酔科医の悲鳴のような叫び声。『血圧測れません! 脈拍三十、二十……除細動器スタンバイ!』
パドルを胸に当て、放電する。ドンッと跳ね上がる小さな身体。
それでも、戻らない。
――ピーーーーーーーーー。
「やめて……! 鳴らないで……! 助けて……誰か、助けてよぉぉっ!!」
冴子は頭を抱え、床へと転がり落ちた。
過呼吸の激しい痙攣が全身を襲い、指先が硬直して丸まっていく(テタニー症状)。
救急医としての知識が「過換気症候群だ、二酸化炭素を吸え」と冷静に告げているのに、恐怖が理性の一切を焼き尽くしていた。
その時――。
ふわりと、温かいウールの感触が冴子を包み込んだ。
「冴子さん」
床に跪いたぎんがが、倒れ込む冴子を正面から抱きしめたのだ。
瑠璃色のローブポンチョが冴子の震える肩を包み込み、ナイトキャップの金糸刺繍が、冴子の濡れた額に触れる。
ぎんがの手が、冴子の背中の中央、肩甲骨の間を、ゆっくりと、円を描くようにさすり始めた。
「大丈夫……大丈夫だよ。息を吐いて。そう、ふぅーっと吐き出してごらん」
「苦しい……! 死んじゃう……私が殺したの! 私のせいで、あの子は……!」
「殺してないよ。あなたは戦ったんだよ。誰も入り込めない暗闇の中で、あの子の手を必死に握りしめていたんだよ……」
ぎんがの声は、少しも乱れず、深い海の底のように凪いでいた。
「闇を怖がらなくていいの、冴子さん」
ぎんがは、手にした星図ランタンの芯を少しだけ持ち上げた。
ぽつん、と小さなオレンジ色の灯火が、二人の顔を柔らかく照らし出す。
「闇はね、命を奪う怪物じゃないよ。……闇があるからこそ、この小さな火の温もりが分かる。闇が深いからこそ、空の星がこんなにも眩しく光るんだよ。……あなたは今まで、光ばかりを求めて、自分の限界を責め続けてきたんだね。でも、人間は神様じゃない。光になれなくてもいいんだよ」
「光に……なれなくても……?」
「うん。小さな灯火でいいの。消えそうな命の隣で、一緒に震えてあげるだけでいいの……」
ぎんがの抱擁から伝わってくる、甘く静かな温もり。
背中をさする手のひらのリズム。
冴子はぎんがの胸元に顔を埋め、しゃくり上げるように泣き始めた。
過呼吸の激しい喘ぎが、少しずつ、少しずつ、熱い涙となって吐き出されていく。
高梁川の漆黒の渓谷を、銀河は走り続ける。
そして、列車は伯備線の最も深い山あいの駅――深夜のおもてなしが待つ『生山駅』へと近づいていた。
夜の底から、救いの光が立ち上ろうとしていた。




