↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
118/214

第118話:深夜二時の姫路城、静寂に響くレール音

四号車のフリースペース『プレセア』。

 丸みを帯びた大きな窓に向かって配された、ネイビーとマスタードイエローのモダンなソファ席には、冴子とぎんがの二人だけが座っていた。

 車内を満たすのは、かすかな空調の音と、レールを刻む車輪の重低音だけ。

 

 時計の針は、午前二時を回ろうとしていた。

 世界中の人々が深い眠りへと沈んでいる時間帯。

 

「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」

 ぎんがが、真鍮のソーサーに載せた白いマグカップを差し出した。

 立ち上る湯気とともに、どこか甘く、野の青さを孕んだ香りが鼻腔をくすぐる。

 

「……カモミールティー?」

「うん。乾燥させたカモミールの花と、ほんの少しのシナモン、そして奥出雲のトチの花のハチミツを溶かしてあるの。……夜行列車特製の、眠れない夜のためのお茶だよ」

 

 冴子は両手でマグカップを包み込んだ。

 陶器の温もりが、冷たかった手のひらへとじんわりと伝わってくる。

 唇をつけ、一口啜る。

 甘い林檎のような優しい香りと、トチミツのコクのある甘み、そしてシナモンのほのかな温熱が、喉を滑り落ちて胃の腑へと届いた。

 何週間もブラックコーヒーとエナジードリンクで痛めつけられていた胃壁が、ふわりと温かい布で包まれるような感覚に、思わず肩の力が抜ける。

 

「……美味しい」

「ふふ、よかった。人間ってね、温かいものを飲むだけで、心が『ここは安全なんだ』って認識するようにできているんだって」

 ぎんがは星屑のナイトキャップの房を揺らしながら、窓の外の闇を見つめた。

 

 その時だった。

 暗闇に沈む車窓の右手に、突如として、息を呑むような白き幻影が浮かび上がった。

 

「……あっ!」

 冴子は思わず身を乗り出した。

 

 夜の帳を裂いて、漆黒の空に白く浮かび上がっていたのは、白鷺城の別名を持つ名城――国宝・姫路城の大天守だった。

 深夜のライトアップを浴び、白漆喰の総塗籠造(そうぬりごめづくり)の城壁が、まるで闇夜の海に羽を広げて降り立った巨大な白鳥のように、幽玄な輝きを放っている。

 五重六階の壮麗な屋根の重なり、反り立つ石垣の曲線。

 静まり返った街を見下ろすその姿は、何百年もの戦乱や災害を越えて、今なお人々を見守り続けている不動の守護神のようだった。

 

「綺麗……」

「そうだね」

 ぎんがが静かに頷く。

「昼間の姫路城も堂々として美しいけれど、深夜二時の、誰も見ていない時間に静かに光る姿は、特別に尊いんだ。……昼間はね、世界が騒がしすぎるの。誰もが何かを競い合って、誰かに評価されようと必死になって、傷つけ合っている」

 

 ぎんがは、冴子のカップにそっと手を添えた。

「でも、夜は違う。夜はね、何者にもならなくていい時間。お医者さんであることも、失敗した自分を責めることも、すべて手放していいの。……夜は、傷口に貼る湿布なんだよ。傷を治すために、ただ静かに包んであげるための、神様がくれた毛布なの」

 

「何者にも……ならなくていい時間……」

 冴子の胸の奥底で、固く凍りついていた何かが、ピシリと音を立てて小さくひび割れた。

 

 姫路城の白き天守が、後方へとゆっくりと遠ざかっていく。

 列車は兵庫を抜け、やがて岡山へと至る山陽路を、星空の下で静かに進み続けていた。

 だが、安らぎの時間は、やがて訪れる「漆黒の渓谷」によって、再び激しく揺さぶられることになるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。