第118話:深夜二時の姫路城、静寂に響くレール音
四号車のフリースペース『プレセア』。
丸みを帯びた大きな窓に向かって配された、ネイビーとマスタードイエローのモダンなソファ席には、冴子とぎんがの二人だけが座っていた。
車内を満たすのは、かすかな空調の音と、レールを刻む車輪の重低音だけ。
時計の針は、午前二時を回ろうとしていた。
世界中の人々が深い眠りへと沈んでいる時間帯。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけてね」
ぎんがが、真鍮のソーサーに載せた白いマグカップを差し出した。
立ち上る湯気とともに、どこか甘く、野の青さを孕んだ香りが鼻腔をくすぐる。
「……カモミールティー?」
「うん。乾燥させたカモミールの花と、ほんの少しのシナモン、そして奥出雲のトチの花のハチミツを溶かしてあるの。……夜行列車特製の、眠れない夜のためのお茶だよ」
冴子は両手でマグカップを包み込んだ。
陶器の温もりが、冷たかった手のひらへとじんわりと伝わってくる。
唇をつけ、一口啜る。
甘い林檎のような優しい香りと、トチミツのコクのある甘み、そしてシナモンのほのかな温熱が、喉を滑り落ちて胃の腑へと届いた。
何週間もブラックコーヒーとエナジードリンクで痛めつけられていた胃壁が、ふわりと温かい布で包まれるような感覚に、思わず肩の力が抜ける。
「……美味しい」
「ふふ、よかった。人間ってね、温かいものを飲むだけで、心が『ここは安全なんだ』って認識するようにできているんだって」
ぎんがは星屑のナイトキャップの房を揺らしながら、窓の外の闇を見つめた。
その時だった。
暗闇に沈む車窓の右手に、突如として、息を呑むような白き幻影が浮かび上がった。
「……あっ!」
冴子は思わず身を乗り出した。
夜の帳を裂いて、漆黒の空に白く浮かび上がっていたのは、白鷺城の別名を持つ名城――国宝・姫路城の大天守だった。
深夜のライトアップを浴び、白漆喰の総塗籠造の城壁が、まるで闇夜の海に羽を広げて降り立った巨大な白鳥のように、幽玄な輝きを放っている。
五重六階の壮麗な屋根の重なり、反り立つ石垣の曲線。
静まり返った街を見下ろすその姿は、何百年もの戦乱や災害を越えて、今なお人々を見守り続けている不動の守護神のようだった。
「綺麗……」
「そうだね」
ぎんがが静かに頷く。
「昼間の姫路城も堂々として美しいけれど、深夜二時の、誰も見ていない時間に静かに光る姿は、特別に尊いんだ。……昼間はね、世界が騒がしすぎるの。誰もが何かを競い合って、誰かに評価されようと必死になって、傷つけ合っている」
ぎんがは、冴子のカップにそっと手を添えた。
「でも、夜は違う。夜はね、何者にもならなくていい時間。お医者さんであることも、失敗した自分を責めることも、すべて手放していいの。……夜は、傷口に貼る湿布なんだよ。傷を治すために、ただ静かに包んであげるための、神様がくれた毛布なの」
「何者にも……ならなくていい時間……」
冴子の胸の奥底で、固く凍りついていた何かが、ピシリと音を立てて小さくひび割れた。
姫路城の白き天守が、後方へとゆっくりと遠ざかっていく。
列車は兵庫を抜け、やがて岡山へと至る山陽路を、星空の下で静かに進み続けていた。
だが、安らぎの時間は、やがて訪れる「漆黒の渓谷」によって、再び激しく揺さぶられることになるのだった。




