第117話:プレセアの寝台、夜を走る列車の揺り籠
車内に足を踏み入れた瞬間、冴子は全身の力がふっと抜けるような感覚を覚えた。
そこには、冷たい都会の喧騒や、病院の消毒液と蛍光灯の鋭い光は一切なかった。
通路には、足音を吸い込む深いネイビーの絨毯が敷き詰められ、壁面には温かみのある木目調のパネル。
天井の丸みを帯びた間接照明が、車内をほの暗い琥珀色に染め上げている。
すれ違う乗客たちも皆、思い思いにくつろぎ、静かに夜の旅を楽しんでいた。
「こちらへどうぞ、冴子さん」
ぎんがが案内したのは、二号車の女性専用車両に設けられた簡易寝台区画――『クシェット』だった。
かつての寝台特急の開放二段寝台を現代風にリメイクした、秘密基地のようなプライベート空間。
マットレスの上には、パリッと糊の効いた清潔な白いリネンのシーツが敷かれ、その上には深緑色の上質なウール毛布が用意されていた。
枕元には、小さな真鍮の読書灯と、小物を置くための木製トレイ。
「……横になっても、いいんですか」
「うん。靴を脱いで、足を伸ばしてごらん」
冴子はコートを脱ぎ、寝台の上へと身を滑り込ませた。
足を水平に伸ばしたのは、一体何日ぶりだろうか。
当直室の硬いパイプ椅子で仮眠を取ろうとしては飛び起きる日々が続いていたため、身体の芯まで沈み込むような低反発マットレスの柔らかさが、強烈な安らぎとなって背骨を包み込む。
だが――。
毛布を引き上げ、頭を枕に預けた瞬間、やはり「あの怪物」が這い上がってきた。
ドクン、ドクン、ドクン……!
急激に跳ね上がる脈拍。
心臓が肋骨の内側を突き破らんばかりに暴れ狂う。
目を閉じると、まぶたの裏に真っ赤な術野が広がり、血圧低下を告げるけたたましい警告音が、耳の奥で鳴り響き始めた。
「――っ、はぁっ、はぁっ……!」
冷や汗が吹き出し、過呼吸の発作が喉を締め付ける。
飛び起きようとする冴子の肩に、ふわりと温かい布がかけられた。
「大丈夫……大丈夫だよ」
ぎんがだった。
彼女は寝台の端にそっと腰掛け、真鍮の星図ランタンの灯りを極限まで絞ると、冴子の震える背中にそっと手のひらを添えた。
「無理に目を閉じなくていいんだよ、冴子さん。眠ろうとすればするほど、心臓は戦おうとしてしまうからね」
「で、でも……目を覚ましていると、あの音が……アラームが聞こえてきて……!」
「なら、窓の外の闇を見つめてごらん。そして、耳を澄まして」
ぎんがの静かな指先が、トントン、と一定のリズムで冴子の肩を叩いた。
タタン、タタン……。
タタン、タタン……。
車輪がレールの継ぎ目を越える、低く、重く、どこまでも規則正しいジョイント音。
列車は時速九十キロの安定した速度で、深夜の東海道本線を西へと滑るように疾走していた。
「聞こえる?」
ぎんがが、耳元で優しく囁く。
「一秒に一回。列車はね、あなたの代わりに、こうして規則正しく呼吸してくれているの。あなたが起きていようと、眠っていようと、この鉄の身体が、あなたを乗せて前へ進み続けている。……だから、あなたはもう、頑張って息をしなくてもいいんだよ」
「列車の……呼吸……」
冴子は胸元を押さえ、耳を澄ました。
タタン、タタン……。
その単調で力強いリズムは、まるで――母親の胎内で聴いていた心音のようだった。
乱れ狂っていた冴子の脈拍が、少しずつ、少しずつ、車輪のビートと同期していく。
呼吸が、深くなる。
肺の底まで、冷え切っていた夜気が通り抜け、ウール毛布の温もりが指先へと届いていく。
「……少し、楽になったみたいだ」
「うん。夜はまだ始まったばかり。……フリースペースでお茶でも飲もうか」
ぎんがに手を引かれ、冴子は夜の車窓を望むラウンジへと、ゆっくりと歩みを進めた。




