第116話:深夜の京都駅、眠れぬ救急医と瑠璃色の列車
夜の十一時を過ぎた京都駅。
終電間際のざわめきが急速に引いていく広大なコンクリートの構内を、篠原冴子は幽霊のように足を引きずって歩いていた。
三十四歳。トレンチコートの襟をかき抱く両手は、細かく、しかし止まることなく震えている。
コートの下に着ているのは、病院から逃げ出した時のままのヨレヨレのスクラブシャツ。
目の下には墨を塗りたくったような青黒い隈が落ち、頬はこけ、唇は血の気を失ってカサカサに乾き切っていた。
「……消えない」
掠れた声が、冷たい夜気に溶ける。
耳を塞いでも、こめかみを強く叩いても、頭蓋骨の内側からあの音が響き続けていた。
――ピーーーーーーーーー。
心電図モニターが描く、水平の一本線。
心停止を示す、無機質で残酷な連続アラーム音。
冴子は、大阪の三次救命救急センターで、昼夜を問わずドクターヘリに乗り込むフライトドクター兼外科医だった。
生死の境を彷徨う重篤患者を何百人と処置し、「鉄の女」とあだ名されるほど冷静沈着にメスを振るってきた。
だが――半年前の、嵐の夜。
大型トラックとの衝突事故で搬送されてきた、八歳の男の子。
胸を強く打撲し、肺動脈が裂け、胸腔内は血液で満たされていた。
開胸し、指先を血まみれにして止血鉗子をかけ、心臓マッサージを繰り返した。
『戻ってきて! お願いだから、目を開けて!』
叫びながら、一時間以上も心臓を押し続けた。
だが、小さな心臓は二度と脈打つことはなく、モニターのアラームだけが、静まり返った手術室に鳴り響いた。
あの日から、冴子の世界は壊れた。
ベッドに入り、まぶたを閉じると、暗闇の中からあの男の子の冷たくなった小さな手が伸びてくる。
そして、あのフラット音が、脳髄を切り刻むように鳴り響くのだ。
――眠ったら、また誰かが死ぬ。
――私が目を閉じている間に、救えるはずの命が消えてしまう。
強迫観念は日増しに膨れ上がり、冴子は眠ることができなくなった。
一睡もできないまま当直に入り、処方された睡眠導入剤も抗不安薬も、最大用量を超えても全く効かない。
やがて指先が震え始め、点滴の針すら刺せなくなった。
見かねた救命センター長から、先週、言い渡された宣告。
『篠原。お前はこのままじゃ死ぬぞ。当面のあいだ、無期限の休職だ。病院の敷地には一歩も入るな』
メスを奪われ、居場所を失った。
眠ることもできず、起きていることも苦痛でしかない。
ふらりと乗り込んだ東海道線の各駅停車。気づけば、終着の京都駅の暗いホームに立っていた。
「……飛び込めば、静かになるのかな」
三十一番線ホーム。誰もいない線路を見下ろし、冴子がふらりと爪先を浮かせた、その瞬間だった。
トレンチコートの内ポケットで、トクン、と何かが熱く拍動した。
「……え?」
冴子は胸元に手を差し入れた。
指先に触れたのは、薬のシートではない。
厚みのある、純白の硬券切符。
行先も、運賃も、日付もない。
ただ中央に、深い瑠璃色と銀色の文字で、こう記されていた。
――『風の切符』
切符を見つめた瞬間、構内の静寂を裂いて、遠くから滑らかなジョイント音が近づいてきた。
タタン、タタン……。
暗闇の奥から姿を現したのは、通勤電車でも、無機質な新幹線でもなかった。
深海のように深く、澄み切った瑠璃色の車体。
側面には、銀の星屑が帯のように散りばめられ、車内の大きな窓からは、琥珀色のアール・デコ調の間接照明が優しく漏れている。
――『WEST EXPRESS 銀河』。
夜を旅するためだけに生まれた、現代の夜行特急。
プシューッ、と静かにドアが開き、ステップの上に一人の少女が姿を現した。
深い瑠璃色のウールローブポンチョをふんわりと羽織り、頭には星屑の金糸刺繍が入ったナイトキャップを目深にかぶっている。
首元には三日月の銀製ペンダント。
そしてその手には、真鍮の古い星図ランタンが提げられていた。
少女の瞳は、静まり返った夜空のように深く、眠たげな半目だったが、そこには全てを包み込むような無限の慈愛が宿っていた。
「……こんばんは、夜の迷子さん」
囁くような、鈴の音のように澄んだウィスパーボイスが、冴子の耳朶を打った。
「ずっと起きていたんだね。……とても、痛かったでしょう」
「な……なたは……? その列車は……」
「私は『ぎんが』。夜の暗闇に怯える旅人を、星空の彼方へとお連れする夜行の鉄娘だよ」
ぎんがは歩み寄り、冷え切って震える冴子の右手を、柔らかい両手で包み込んだ。
温かい。
薬でも酒でも温まらなかった指先へ、じんわりと優しい体温が流れ込んでくる。
「風の切符をお持ちなら、お乗りなさい。……今宵、銀河は伯備線の深い山を越えて、神話の出雲へと旅立ちます。眠れなくてもいい。ただ、この揺り籠に身を委ねてごらん」
冴子は抵抗できなかった。
その優しい声に導かれるように、瑠璃色の列車の扉へと、吸い込まれるように足を運んでいた。




