第114話:転車台の上の貴婦人、真鍮歯車が噛み合う夜
夜の津和野駅。
観光客のざわめきが完全に消え去り、山あいの冷気が線路を白く包み込む頃、駅の西端にある巨大な転車台に、オレンジ色の投光器が一斉に灯った。
ガタゴト……ガタゴト……。
ゆっくりと転車台のレールへと進み出た漆黒の蒸気機関車――C57 1。
全長二十メートルを超える鉄の巨躯が、円形の台座の中央でピタリと停止した。
キィィィィン……という重厚な油圧モーターの唸り声とともに、円形プールの中央のレールが、ゆっくりと百八十度の旋回を始めた。
投光器の光を浴び、ボイラーの曲面が艶やかな黒漆のように光り輝く。
安全弁から微かに漏れる白い蒸気が、夜空に立ち上り、満天の星屑の中へと溶けていく。
「……なんて、神々しい姿だ」
恭平は転車台の手すりにもたれ、息を呑んだ。
昼間の荒々しいドラフトとは違う、静寂の中で息づく鉄の巨躯。
「恭平、降りてこい」
キャブの足元に立つやまぐちが、手招きした。
首から提げた真鍮のゴーグルを外し、その紅蓮の瞳で恭平を見上げている。
「その歯車を、取り出すのだ」
恭平は胸ポケットから、あの曾祖父の真鍮歯車を取り出した。
やまぐちに導かれ、第一動輪の奥、加水装置と給水ポンプが接続される主軸受けのスペースへと屈み込む。
「そこだ。このC57 1号機が製造された昭和十二年、金蔵が手作業で削り出したテスト用のギアボックスがある」
恭平は懐中電灯で照らした。
黒く煤けた鋳鉄のボックスの中に、小さな真鍮のシャフトが一本、ぽつりと突き出ていた。
恭平は息を詰め、震える指先で、曾祖父の歯車をそのシャフトへと差し入れた。
カチリ――。
一ミリのガタつきも、一ミクロンの狂いもなく。
まるで八十年もの間、ずっとこの瞬間を待っていたかのように、歯車は吸い付くようにシャフトの奥へと収まり、内側の駆動ギアと完璧に噛み合った。
「……噛み合った」
恭平の声が震えた。
「金蔵爺さん……本当に、この機関車のために削ったんだ……!」
恭平はカバンから、曾祖父の古い日記を取り出し、ページを開いた。
煤で黒ずんだ和紙に、毛筆で力強く書かれた一節。
『昭和十二年三月、新造サレタC57 1号機ノ試運転ニ立チ会フ。二十代ノ若キ新米機関士・義造ガ、初めて火室ノ投炭ニ成功シテ、真っ黒ナ顔デ泣イテ喜ブ。我、思フ。時代ハ進ミ、鉄路ハ電化サレ、我ラガ技術モヤガテ忘レ去ラルル日ガ来ルヤモ知レズ。サレド恐ルルニ足ラズ。鉄ハ熱イうちニ打テ。手ノ平ニ誇リガアル限リ、人間ノ心棒ハ絶対ニ折レヌ』
「……若き機関士、義造……」
恭平は日記の文字を指でなぞった。
「そうだ」
やまぐちが、恭平の肩にそっと手を置いた。
「お前の祖父――工藤義造が、初めてこの貴婦人の火を燃やした機関士だったのだよ。金蔵は、愛する孫が命を預ける機関車のために、あの歯車を削り出したのだ」
「爺ちゃんの……ために……!」
頭を激しい衝撃が貫いた。
下関の病床で、いま静かに余命を過ごしている祖父・義造。
元国鉄の機関士だった祖父が、幼い恭平の頭を撫でながら、いつも誇らしげに語っていた言葉が蘇る。
『恭平。旋盤を回す時はな、図面を見るんじゃない。その部品が誰の命を乗せて走るのかを想像するんだ。それが、職人の心棒だ』
涙が、滝のように溢れ出した。
恭平は転車台の敷石に両膝をつき、歯車を握りしめて号泣した。
「俺は……何も見えていなかった……!」
叫びが、夜の津和野駅に響き渡る。
「単価がどうとか、自動化がどうとか、そんな数字ばかり気にして……自分が誰のために、何のために鉄を削っていたのか、一番大事な心棒を忘れていた……!」
恭平は立ち上がった。
涙を袖で力強く拭い、転車台の上のC57を見上げた。
「俺は、工場を畳まない!」
力強い宣言が、夜の静寂を切り裂いた。
「下請けの仕事がなくなったなら、自分たちの名前で、誰かの命を震わせる世界一のパーツを作ってやる! 自転車でも、医療機器でも、カメラでもいい! 俺のこの手がある限り、『工藤精工』の心棒は絶対に折らない!!」
ガタゴト……と転車台が百八十度の回転を終え、レールが再び本線と一直線に繋がった。
やまぐちは満面の笑みを浮かべ、真鍮の杖を天へと突き上げた。
「よく言った、恭平! それでこそ、鉄路に命を吹き込んだ鍛冶工の末裔だ!」
満天の星空の下、若き職人の魂に、二度と消えることのない真紅の炎が再点火されたのだった。




