第113話:酒蔵の杉玉、銘酒『初陣』と熱々の源氏巻
殿町通りを抜けた路地。
白壁の土蔵が立ち並ぶ一角に、緑の杉玉が軒下に吊るされた古い造り酒屋があった。
文政十三年(1830年)創業の蔵元――『古橋酒造』。
格子戸をくぐると、蔵の奥から冷んやりとした麹と発酵する米の芳醇な香りが漂ってきた。
「いらっしゃいませ。……おや、やまぐちさん。今日も無事に峠を越えてこられましたね」
前掛け姿の若旦那が、笑顔で迎えてくれた。
「うむ! 今日も我がシリンダーは絶好調だ! 若旦那、この男に、津和野の武士の覚悟が宿るあの酒を出してやってくれ」
「かしこまりました。今朝、槽から搾ったばかりの生原酒がございますよ」
運ばれてきたのは、青白い蛇の目の利猪口。
無色透明の澄み切った酒。
銘柄は――『初陣』。
幕末、津和野藩の藩士たちが初陣に臨む際、別れの盃を交わし、必勝の覚悟を誓ったことから名付けられたという、津和野を代表する地酒である。
「恭平、呑んでみろ。戦へ向かう男の酒だ」
やまぐちに促され、恭平は両手で猪口を持ち上げ、口に含んだ。
「――っ!!」
刹那、舌の上に広がったのは、津和野の清らかな山水と酒米の、研ぎ澄まされたふくよかな旨味。
そして、喉を滑り落ちた瞬間――カッと刃物のように鮮烈なキレが駆け抜け、一切の雑味を残さず後味を切り落としていった。
辛口。だが、ただ辛いだけではない。
芯の通った骨太な意志が、そのまま液体になったかのような力強い余韻。
「……美味い」
恭平は息を吐き出した。
「甘えを許さないような、凛とした潔さがある……」
「そうだろう。だが、武士の覚悟には、甘い温もりも必要なのだ」
やまぐちが竹籠から取り出したのは、駅前の老舗菓子処で買い求めたばかりの、紙包みに入った熱々の銘菓だった。
津和野名物――『源氏巻』。
「焼きたてだ。冷めないうちに割ってみろ」
恭平が包みを開けると、香ばしい焼き菓子の甘い湯気が立ち上った。
キツネ色に焼き上げられた、厚さわずか数ミリの極薄のカステラ生地。
指で二つに割ると、中から艶やかな漆黒のこし餡が、湯気を立てて顔を覗かせた。
一口かじる。
パリッとした表面の香ばしさのあと、しっとりとしたカステラの優しい卵の風味が広がる。
そして、北海道産小豆を極限まで滑らかに練り上げたこし餡の、上品で控えめな甘み。
舌の上でサラリと解けていく餡の温もりが、冷えた胃の腑を優しく撫でていく。
すかさず、初陣を一口含む。
「……あっ!」
恭平は目を見張った。
カステラの甘みとこし餡のコクが、初陣の鋭いキレと出会うことで、信じられないほどの深みへと昇華したのだ。
甘さが酒のキレを引き立て、酒の辛さが餡の余韻を清らかに締めくくる。
「源氏巻はな、江戸の昔、津和野藩の家老が藩の危機を救うため、吉良上野介への進物に忍ばせた小判が起源と伝えられている」
やまぐちが静かに語った。
「危機の底にあっても、知恵を絞り、誇りを捨てず、民を救おうとした先人たちの執念が、この甘い菓子の皮の中に包まれているのだ。……恭平。お前の『初陣』は、これからだ」
「初陣……」
恭平は空になった猪口を握りしめた。
下関に戻れば、借金も、失った取引先も、何も解決していない現実が待っている。
だが――逃げるための旅は、もう終わりだ。
これからは、自分の旋盤一本で、自分の名前で、新しい戦場へ打って出るのだ。
「陽が暮れるぞ」
やまぐちが立ち上がった。
「駅へ戻ろう。今宵、お前の曾祖父が遺した最後の謎を解き明かす時だ!」
津和野の町に夕闇が降り、駅の転車台に、神秘的な夜の静寂が訪れようとしていた。




