第112話:殿町通りの掘割、鯉が見つめる旅人のペン
山陰の小京都――津和野。
城下町の中心である『殿町通り』は、江戸時代の武家屋敷の白壁と格子戸が延々と続き、静寂な時が流れていた。
通り沿いを流れる清らかな水路――掘割には、菖蒲の花が紫の蕾を膨らませ、その澄み切った水底を、赤、白、金、漆黒の色鮮やかな錦鯉が無数に、優雅に尾びれを揺らして泳いでいる。
「きれいな水だな……」
恭平は水路の石垣に腰を下ろし、透き通る水面を見つめた。
山からの伏流水が、町中の水路を絶え間なく巡っている。
ふと視線を上げると、少し先の木製ベンチに、革のトレンチコートを着た一人の青年が座っていた。
膝の上に原稿用紙を広げ、真鍮の万年筆をサラサラと走らせている。
黒髪に銀縁の眼鏡。知性的で、しかしその横顔には、かつて大きな挫折を乗り越えた者だけが持つ、深く静かな覚悟が宿っていた。
「……おや? やまぐちさん」
青年が顔を上げ、恭平の隣に立つ少女を見て驚いたように眼鏡を押し上げた。
「久しぶりですね、蓮。……相変わらず、ペンを走らせているようだな」
やまぐちが柔らかく微笑む。
「え……? 知り合いなのか?」
恭平が尋ねると、青年は立ち上がり、丁寧にお辞儀をした。
「初めまして。中原蓮と申します。歴史小説を書いています。……以前、山陰の観光列車『○○のはなし』に乗って、萩や仙崎を旅した際、彼女の妹分である『はなし』さんにお世話になりましてね。今は、津和野が生んだ文豪・森鴎外の足跡を取材しに来ていたところです」
「中原……蓮……!?」
恭平は目を見張った。
「まさか……あの『海を渡る風の船』を書いた、中原蓮先生ですか!?」
「先生だなんて、滅相もない。まだ駆け出しの物書きですよ」
蓮は照れくさそうに笑った。
「工場が暇だった頃、本屋であなたの小説を読みました。幕末の萩で、名もなき足軽と船大工たちが泥まみれになって船を造った話……。胸が熱くなって、工場の机で泣きましたよ」
「読んでくださったんですか。ありがとうございます」
蓮は、恭平が差し出した右手を両手で包み込んだ。
その瞬間、蓮の指先が、恭平の硬い掌の豆と、爪の間に染み付いた黒い機械油の痕跡に触れた。
「……素晴らしい手ですね」
蓮が、感嘆の息を漏らした。
「え……?」
「金属の粉と油が、皮膚の奥深くまで染み込んでいる。……職人さんですね?」
「……下関の旋盤工です。でも、工場は潰れかけで……俺の技術なんて、何の役にも立たない時代遅れのごみ屑ですよ」
恭平が自嘲気味に目を伏せると、蓮は真っ直ぐに恭平の目を見据え、静かに、しかし力強く告げた。
「そんなことはありません」
「え……?」
「僕もかつて、自分の書いた原稿用紙を下関の海に投げ捨てようとしました。『自分には才能がない、歴史を語る資格なんてない』と。……でも、気づいたんです。歴史を創ってきたのは、教科書に載る英雄たちだけじゃない。暗闇の中で船の竜骨を削った名もなき大工たち、鉄路を守り抜いた無数の人々……彼らの流した汗こそが、この国の本当の土台なのだと」
蓮は、自らの手にする真鍮の万年筆を恭平に見せた。
「このペン先も、精密な金属加工技術がなければ、一文字たりともインクを紙に落とせません。あなたのその傷だらけの手は、見えない場所で、この国の命を、人々の暮らしを支え続けてきた手です。……どうか、その手を恥じないでください。あなたの手は、誇り高き職人の手です」
誇り高き、職人の手――。
その言葉が、恭平の胸の奥底に溜まっていた澱を、一瞬にして洗い流していった。
涙が、視界を滲ませる。
「ありがとう……中原さん。俺、もう少し……足掻いてみます。この手が動く限り、鉄を削り続けてみます」
「ええ。あなたの作った部品が、また誰かの明日を動かす日を楽しみにしています」
蓮は温かい笑みを浮かべ、再び原稿用紙へと向かった。
掘割の錦鯉が、水面を跳ねて水しぶきを上げた。
恭平の心の中に、消えかけていた炎が、いまや確固たる紅蓮の業火となって燃え上がっていた。
そして――津和野の酒と菓子が、その魂の覚醒を祝うかのように待っていた。




