第110話:給水ポンプの亀裂、深夜の真鍮旋盤
大山路の峠を越え、盆地の小駅――地福駅の側線へと滑り込んだ直後、異変が起きた。
プシューーーーッ!!
キャブの下部、ボイラーへと水を送り込む補助給水ポンプの配管から、けたたましい高圧蒸気の漏洩音が響き渡ったのだ。
白い蒸気のカーテンが車輪の周りを包み込み、機関士が慌てて非常バルブを閉め切る。
「機関士長、どうした!?」
やまぐちがキャブから飛び降り、ボイラーの床下へと潜り込んだ。
点検用ハンマーで叩いた瞬間、鈍い音が響く。
「……真鍮の継手ボルトだ。大山路の激しい振動と高圧に耐えかねて、フランジの根本にヘアラインクラック(微細な亀裂)が入っている! ここから圧力が漏れ、ボイラーへ給水ができない!」
「そんな……! 予備の部品は!?」
機関助士が青ざめて叫ぶ。
「ない! この特殊な規格のインチネジ継手は、新山口の車両基地の倉庫にしかない。……ここまでか。運行を打ち切り、ディーゼル機関車を呼んで牽引させるしかないのか……」
機関士たちが肩を落とし、悔しさに唇を噛み締めた。
津和野への旅は、ここで終わるのか。
貴婦人は、ここで火を落とさねばならないのか。
「……待ってください」
静寂を破ったのは、恭平の声だった。
恭平は床下に身を滑り込ませ、懐中電灯の光を亀裂の入った真鍮ボルトへと当てた。
「外径三十五ミリ、ピッチ二ミリの特殊ネジ山。……これなら、作れる」
「え……? 作れるって、お前、何を言っているんだ! こんな山あいの無人駅の周りに、部品工場なんてあるはずが――」
「ある!」
恭平は立ち上がり、駅前通りの向こうを指差した。
「さっき車窓から見えた。駅前の古い農機具修理屋の看板だ。あそこには、トラクターやコンバインのシャフトを直すための、昔ながらの汎用旋盤が絶対に置いてある!」
恭平は作業着の胸ポケットから、曾祖父の真鍮歯車を取り出した。
「曾祖父の歯車と同じ、高品質な快削黄銅の端材と、俺の商売道具であるチタンの丸棒が、カバンの中に入っている。……削らせてください! 俺の手で、この機関車の心臓を繋いでみせる!」
やまぐちは、恭平の目をじっと見つめた。
その瞳の奥に、かつて新山口駅のベンチで死んでいた男の姿はどこにもなかった。
「……よし、行け、工藤恭平! 貴婦人の命を、お前のその両手に預ける!」
* * *
駅前の農機具修理工場のシャッターを叩き、老店主を起こして頭を下げた。
案内された土間の奥に鎮座していたのは、四十年前に製造された旧式の汎用旋盤だった。
油まみれのチャック、擦り減った刃物台。コンピューター制御のデジタルスケールなど何一つない、完全な手動機。
「……久しぶりだな、相棒」
恭平は作業用ゴーグルをかけ、主軸モーターのスイッチを入れた。
ヴィィィィィン……!
心地よいモーターの唸り声が、夜の作業場に響き渡る。
真鍮の丸棒をチャックに咥えさせ、バイト(超硬切削刃)をセットする。
ハンドルを握る両手から、一切の震えが消え去っていた。
シュルシュルシュル……!
刃先が金属に触れた瞬間、金色の美しい削り節(切り屑)が、噴水のように宙を舞った。
摩擦熱を冷ます切削油の煙。
焦げた油の匂いと、金属が削れる甲高い摩擦音が、恭平の五感を極限まで研ぎ澄ましていく。
ノギスで測るのではない。
指先の腹で、旋盤のハンドルから伝わってくる微細な振動を感じ取る。
コンマ零五ミリ……コンマ零二ミリ……。
熱膨張で膨らんだ分を計算に入れ、冷えた時に完璧に嵌まり合う公差を、指先の感覚だけで追い込んでいく。
「すごい……」
見守っていた農機具屋の老店主が息を呑んだ。
「ハンドルを回す手の動きに、一切の迷いがねえ。……職人の鑑だ」
二時間後。
朝靄が立ち込める薄明かりの中、旋盤が静かに止まった。
恭平の掌の上に載せられていたのは、鏡のように磨き上げられた一本の真鍮製継手ボルト。
そして――念のために手持ちのチタン丸棒から削り出した、超軽量の予備留め具(金具)が二個。
「できた……!」
恭平は汗だくの顔を拭い、やまぐちの待つ駅へと駆け出した。
地福駅の側線。
恭平が削り出した真鍮ボルトを、機関士長の手で補助給水ポンプへとねじ込む。
カチリ、と狂いなく、まるで吸い付くようにネジ山が噛み合った。
バルブを開く。
高圧の蒸気がパイプを満たすが、一筋の漏れも、一滴の雫も落ちてこない。
完璧な密封。
「……罐圧、保持! 給水ポンプ、完全作動だ!!」
機関士長が叫び、歓声が上がった。
やまぐちが歩み寄り、恭平の泥と油にまみれた右手を、両手で強く握りしめた。
「見事だ、恭平! お前の手は、確かに百年の鉄路を繋ぎ止めたのだ!」
「ありがとう、やまぐち……」
恭平は、朝日に光るC57の勇姿を見上げた。
そして、手元に残った一個の予備のチタン金具を、農機具屋の老店主へと手渡した。
「おじさん、旋盤を貸してくれてありがとう。これ、超々ジュラルミンよりも頑固なチタンの削り出し金具なんだ。何かに使ってくれ」
「おお、なんて綺麗な金具だ……! 大切に飾っておくよ」
この時、恭平が手渡した小さな金具が、やがて海を越え、瀬戸内の島で新たな物語を紡ぎ出すことになるとは、まだ誰も知る由がなかった。
汽笛が鳴る。
蘇った貴婦人は、いよいよ終着地――山陰の小京都・津和野へと向けて、高らかに走り出した。




