第109話:二十五分の一の急勾配、仁保のドラフト
列車は仁保駅を出発し、いよいよ山口線随一の難所――篠目駅へと至る峠道へと差し掛かった。
車窓の両脇から、鬱蒼とした杉木立が迫り、線路は一気に急な登り坂を描き始めている。
千分の二十五。
鉄道において、千メートル進む間に二十五メートル登るという勾配は、まさに「壁」に等しい。鉄のレールと鉄の車輪という、極めて摩擦の少ない世界において、数百トンの巨体を押し上げるのは、物理の限界に挑む死闘そのものだった。
「キャブへ来い、恭平!」
やまぐちの鋭い声に導かれ、恭平は再び運転台へと駆け込んだ。
そこは、先ほどとは比べ物にならない緊張感に包まれていた。
機関士の両目が、前方のレールと圧力計の間を激しく往復している。機関助士は全身から滝のような汗を流しながら、休む間もなく巨大な火室へと石炭を投げ込み続けていた。
ドォォォォォォォォン!!
ガガガガッ! ドォォォォン!!
煙突から吹き出すドラフト音は、もはや「シュッシュッ、ポッポッ」というのどかなリズムではなかった。
まるで大地そのものが咆哮しているかのような、鼓膜を破らんばかりの地割れの爆音。
吐き出される黒煙は、天を覆い尽くす黒龍のように渦を巻き、無数の燃えかすと火の粉がキャブの屋根を激しく叩きつける。
「滑るぞ! 砂を撒け!」
機関士が叫び、撒砂バルブを捻る。
レールの上に高圧の空気で砂が吹き付けられる。
車輪が激しく火花を散らし、一瞬、ガクンッと動輪が空転して車体が激しく悲鳴を上げた。
「うわっ……!」
恭平は手すりに必死にしがみついた。
時速は二十キロ、いや、十数キロまで落ちている。
止まるのか? この急坂の途中で、重力に負けて後退してしまうのか?
「諦めるな! 進め、貴婦人ッ!!」
やまぐちが、真鍮の防塵ゴーグルの奥の瞳を真っ赤に燃え上がらせて絶叫した。
彼女の純白のプリーツスカートは、いまや黒い煤にまみれ、額には煤混じりの汗が幾筋も流れている。
だが、その立ち姿は神々しいまでに凛々しかった。
やまぐちは両手をボイラーの側板へと押し当て、自らの魂を鉄の巨躯へと注ぎ込むように叫び続けた。
「誰が貴婦人などとお上品に名付けたのだ! 私たちの本質は、火を喰らい、水を沸かし、泥臭く大地を這い上がる『鉄の労働者』だ! 動輪を噛ませろ! 一ミリでも前へ進めッ!」
ズズズン……! ドォォォォン!!
巨大なロッドが、軋む音を立ててピストンを押し込む。
撒かれた砂を噛み砕きながら、巨大な動輪が、ミリ単位で、しかし確実に、急勾配のレールを鷲掴みにして前進していく。
止まらない。
どれほど重力が引きずり降ろそうとも、SLは決して膝を屈しない。
何万回と火室に石炭を投げ込み、何万回と砂を撒き、ただひたすらに前へ、前へと進み続ける。
恭平の目頭が、熱くなった。
胸を衝くような激しい感情が、涙となって溢れ出し、煤けた頬を濡らした。
「……格好いいよ」
恭平は叫んでいた。
「泥臭くて、真っ黒で……なんて、格好いいんだ……!」
スマートで、綺麗で、無駄のないデジタルな世界に負けたと、自分は腐っていた。
だが、見ろ。
この蒸気機関車は、百年前の技術のまま、全身を軋ませ、黒煙を撒き散らしながら、現代の急坂をねじ伏せているではないか。
古いから負けるのではない。
魂を燃やすことをやめた者が、負けるのだ。
トンネルを抜けた瞬間、パッと視界が開けた。
坂を登りきった列車が、高原の爽快な風を浴びながら、篠目駅のホームへと滑り込んでいく。
ドラフト音が、ふっと穏やかな排気音へと変わった。
やまぐちは荒い息を吐きながら、ゴーグルを外し、恭平を振り返った。
煤だらけの顔に、満面の誇らしげな笑みが咲いていた。
「見たか、恭平。これが……鉄路のドラフトだ!」
恭平は力強く頷いた。
その拳は、固く、固く握りしめられていた。
だが――試練は、これで終わりではなかったのだ。




