第108話:阿武川の友釣り、黄金の鮎と蓼酢
山口線をさらに北上した『SLやまぐち号』は、山あいの深い緑に抱かれた景勝地――長門峡駅へと到着した。
客車の扉から一歩外へ出ると、湯田温泉の硫黄の匂いとは打って変わり、清冽な川のせせらぎと、湿り気を帯びた岩肌、そして青々とした山モミジの薫香が胸いっぱいに飛び込んできた。
「ここ長門峡は、阿武川の激流が何万年もの歳月をかけて花崗岩を削り出した、国の名勝だ。奇岩と滝、そして――日本一美しい鮎が育つ川として知られている」
やまぐちが、黒い革の編み上げブーツで砂利道を踏みしめながら、川沿いの古い茶屋へと恭平を導いた。
川原にせり出した茶屋の軒先。
円形に盛られた灰の中央で、赤々と熾された樫炭が静かに熱を放っていた。
その炭火を取り囲むように、竹串に刺された十数匹の鮎が、頭を下にして円陣を組むように砂に突き刺されている。
「……見事な、串打ちだ」
恭平は思わず息を呑んだ。
鮎の身体は、まるで清流を今まさに遡上しているかのように美しい「くの字」の波形を描き、ヒレには純白の化粧塩が雪のようにまとわれている。
炭火の遠火でじっくりと時間をかけて炙られ、余分な脂がポタポタと灰に落ちてジュッと小さな煙を上げる。
皮は黄金色にパリッと焼き固められ、香ばしい川魚の香りが、あたり一面に立ち込めていた。
「お待たせしました。今朝、阿武川の友釣りで揚がったばかりの天然鮎ですよ」
茶屋の老女が、焼き上がったばかりの熱々の串を二本、笹の葉を敷いたざるに載せて運んできた。
小皿には、鮮やかな深緑色をした液体――すり潰した蓼の葉を酢で溶いた『蓼酢』が添えられている。
「串から外さず、そのまま頭からかぶりつくのだ!」
やまぐちが竹串を片手に、見事な食べっぷりで鮎の頭をパリリと噛み砕いた。
恭平もまた、熱々の串を両手で持ち、香ばしい湯気の立つ頭部へと口を寄せた。
「パキッ!」
小気味よい破砕音が頭蓋骨に心地よく響いた。
香ばしく焼き上がった頭の骨は、まるで極薄のパイ生地のようにサクサクと崩れていく。
そして、ふっくらとした背肉に歯を沈める。
「――っ、甘い……! そして、なんて爽やかな香りなんだ……!」
川魚特有の泥臭さなど、微塵もない。
阿武川の清流の岩肌にびっしりと生えた上質な苔だけを食べて育った鮎は、別名『香魚』と呼ばれる通り、まるで初夏のスイカやメロンのような瑞々しい青い芳香を放っていた。
身はきめ細やかで、噛むほどに上質な脂と清らかな水分が溢れ出す。
そして、内臓の部分に差し掛かる。
恐る恐る口に含むと、舌の奥をキュッと引き締める、気品あるほろ苦さが広がった。
すかさず、緑色の蓼酢に身を少し浸して口に運ぶ。
蓼のピリッとした辛味と、酢の爽快な酸味が、ワタの苦味と白身の甘みを完璧に包み込み、後味をどこまでも清涼に洗い流していった。
「……美味い。頭から尾びれまで、一筋の小骨すら残さず食べられる」
恭平は夢中で食べ進め、あっという間に一本の竹串だけを残して完食していた。
「阿武川の急流は厳しい」
やまぐちが、阿武川のエメラルドグリーンの水面を見つめながら静かに言った。
「穏やかな養殖池で育った魚は、太く柔らかいが、骨が硬く香りも立たぬ。だが、岩を噛む激流に逆らい、己のヒレだけで泳ぎ抜いた天然の鮎は、骨までもがしなやかに鍛え上げられ、これほどまでに気高い香りを放つのだ」
激流に逆らい、己のヒレだけで泳ぎ抜いた魚――。
その言葉が、恭平の胸の奥深くに突き刺さった。
「……俺は、流されていたんだ」
恭平は自らの指先を見つめた。
「大企業の言う通りに単価を下げ、言われた通りの部品を削り、親父たちが築いてきた工場の看板に胡坐をかいていた。EV化の激流が押し寄せてきた時、自分だけの力で泳ぎ抜く覚悟が……最初から足りなかったんだ」
「気づいたなら、それで良い」
やまぐちは優しく微笑み、真鍮のゴーグルをグッと額へと押し上げた。
「激流を越えるのは魚だけではない。この先、我がC57にも、山口線最大の難所が待ち構えている。……千分の二十五の急勾配、大山路越えだ。お前に、鉄の覚悟を見せてやろう!」
汽笛が鳴る。
静かな長門峡の渓谷を後に、列車はいよいよ、天を突く峠道へと挑みかかろうとしていた。




