第107話:白狐の足湯、長州地鶏の炭火焼き
新山口を出発した『SLやまぐち号』は、住宅街を抜け、山あいの温泉街――湯田温泉駅へと滑り込んだ。
ホームに降り立つと、白煙の名残とともに、かすかに硫黄の甘い香りが風に乗って漂ってきた。
駅前には、巨大な白い狐のモニュメントが佇んでいる。
「ここ湯田温泉は、その昔、傷ついた一匹の白狐が毎夜毎夜、池に足を浸して傷を癒やしていたことから発見されたと伝わる古湯だ」
やまぐちが、黒い軍服風ジャケットの裾を翻しながら、駅前広場の足湯へと歩みを進めた。
「おい、恭平。靴を脱げ。その固まった手足の強張りを、まずは大地の温もりで溶かせ」
言われるがままに、恭平は安全靴と分厚い靴下を脱ぎ、檜の湯船へと素足を沈めた。
「――っ、熱い……いや、じんわりと沁みる……」
無色透明の柔らかなアルカリ性単純温泉。
少し高めの温度設定が、何ヶ月も工場の資金繰りと解雇手続きで冷え切っていた恭平の全身の血管を、一気に押し広げていくようだった。
ふう、と深く長い溜息が口から漏れる。
「良い表情になったな。人間、足元が冷えていると、碌な考えが浮かばぬものだ」
隣で純白のプリーツスカートの裾を膝までたくし上げ、白い素足を湯に浸けたやまぐちが、悪戯っぽく笑った。
「さて、血が巡ったら、次は腹を満たす番だ。湯田の夜を彩る、本物の炎の味を食わせてやろう」
足湯から上がり、温泉街の石畳を少し歩いた路地裏。
赤提灯の揺れる古い引き戸を開けると、いきなり炭火の爆ぜる音と、鳥肌が立つほど香ばしい鶏油の煙が鼻腔を直撃した。
「いらっしゃい! やまぐちのお嬢ちゃん、今日もいい煙吐いてるかい!」
ねじり鉢巻の頑固そうな店主が、焼き台の前から威勢のいい声を上げる。
「大将、黒かしわの炭火焼き、一番いいところを頼む! この男の胃袋に、火の洗礼を受けさせてやってくれ!」
「あいよっ!」
カウンターに座って待つこと十分。
目の前に置かれた黒い陶器の皿を見て、恭平は息を呑んだ。
「……黒い! 炭を纏っているのか……!?」
皿の上に山盛りにされていたのは、山口県が誇る地鶏の最高峰――『長州黒かしわ』のモモ肉とムネ肉の炭火焼きだった。
備長炭の猛烈な強火と、滴り落ちる鶏油から立ち上る炎の煙(燻煙)で、肉の表面は真っ黒に煤けている。
だが、焦げているのではない。
炭の香りをたっぷりと吸い込んだ皮目はパリッと張り詰め、切り口からは桜色の瑞々しい肉汁がジュウジュウと溢れ出していた。
「熱いうちに喰らえ! 冷めたら炭火焼きへの冒涜だ!」
やまぐちに急かされ、恭平は割り箸で大振りの一切れを掴み、口の中へと放り込んだ。
「――ッッ!!」
噛み締めた瞬間、パチンッと小気味よい音を立てて皮が弾けた。
凄まじい弾力。
ブロイラーの柔らかさとは全く違う、野山を駆け巡った筋肉の力強い歯ごたえ。
そして、二噛み、三噛みと咀嚼するごとに、繊維の奥から信じられないほど濃厚な旨味のスープが怒涛のように溢れ出してきた。
炭の香ばしい苦味と、鶏肉自身の澄み切った甘み。
「う、美味い……! なんだこの肉の味の濃さは……!? 硬いんじゃなくて、噛めば噛むほど旨味が湧き出して止まらない!」
「ふふ、長州黒かしわは、国の天然記念物である黒柏鶏をルーツに持つ地鶏だ。じっくりと日数をかけて育てられた肉には、イノシン酸が通常の鶏の何倍も凝縮されているのだ」
やまぐちが、冷えたガラスの徳利から、萩の銘酒『東洋美人』の純米酒を恭平のグラスに注いだ。
「添えられた柚子胡椒をつけて、酒を流し込んでみろ」
恭平は緑色の自家製柚子胡椒を肉の端に少し載せ、再び頬張った。
ピリリとした青唐辛子の刺激と、柚子の爽快な柑橘の香りが、鶏の脂を一瞬で洗い流す。
そこへ、冷酒をゴクリと煽る。
米のふくよかな甘みと、炭火の野性が喉の奥で溶け合い、極上の余韻が全身の五臓六腑を駆け巡った。
「……火の、力だな」
恭平はグラスを見つめながら呟いた。
「ただ焼いただけじゃない。炭火の強烈な熱と煙が、鶏肉の命を限界まで引き出している……」
「そうだ」
やまぐちが、真剣な眼差しで恭平を見つめた。
「料理も、鉄も、同じなのだ。どれほど優れた素材があっても、火を入れる人間の覚悟がなければ、本物の味も本物の形も生まれぬ。……恭平。お前の工場には、まだ火が残っているのか?」
その問いに、恭平は息を詰まらせた。
電源を落とした旋盤。冷え切った作業場。
だが、この熱々の黒かしわを食い、酒を呑んだ今、自分の胸の奥底で、小さな火種がパチッと爆ぜたような気がした。
「……分からない。でも、まだ……完全に消えたとは思いたくない」
「よし! その言葉が聞ければ十分だ!」
やまぐちは豪快に笑い、恭平の背中をバチンと叩いた。
「さあ、山口線はこれからが本番だ。次は阿武川の清流――長門峡へ向かうぞ。急流を泳ぎ抜いた黄金の魚が、お前を待っている!」
夜の帳が降りる湯田温泉を背に、二人は再び、蒸気の巨躯へと戻っていった。




