第106話:缶圧上昇、炭水車が運ぶ黒きダイヤ
狭いキャブ(運転台)のステップを上がった瞬間、恭平の全身の毛穴という毛穴から、一瞬で汗が噴き出した。
「――うわっ、熱い……!」
思わず両腕で顔を庇った。
そこは、現代のエアコンの効いた電車とは完全に別世界の、剥き出しの「鉄と火の胎内」だった。
正面に鎮座する巨大な円形のボイラー後部。
ペダルを踏むと、重厚な火室扉が「ガッチャン!」と左右に開き、中から千度を超える真っ赤な業火が、猛烈な赤外線の熱波となって恭平の皮膚を焦がすように襲いかかってきた。
ゴォォォォ……という炎の唸り声。
機関助士が大きな投炭スコップを振るい、炭水車から掬い上げた黒々とした石炭の塊を、炎の奥の火格子へとリズミカルに放り込んでいく。
スコップが炉口の縁に触れるたび、カン、カン、という乾いた金属音が狭い空間に木霊した。
「ボイラーは、生き物なのだ」
やまぐちが、真鍮の防塵ゴーグルを目元に装着しながら、毅然とした声で言った。
純白のプリーツスカートは、すでに薄っすらと煤を浴びている。だが、彼女は気にする素振りすら見せない。
「水と、石炭の熱と、吸い込む空気の量――その三つの均衡が一ミリでも崩れれば、蒸気圧はたちまち落ち、坂道の手前で巨大な鉄屑と化す。人間が常に呼吸を合わせ、汗を流して火をくべ続けなければ、一歩たりとも前へは進めぬのだ」
圧力計の針が、十六気圧のレッドゾーン手前をピタリと指して震えている。
機関士が加減弁の重い真鍮レバーを握り、逆転機ハンドルを微調整する。
「おい、恭平。先ほどの歯車を見せてみろ」
やまぐちが革手袋を外し、恭平の掌から真鍮の歯車をひょいとつまみ上げた。
煤で少し汚れた彼女の細い指先が、歯車の歯面を愛おしそうに撫でる。
「……やはりな。このサイクロイド曲線の削り出し。現代のマシニングセンタでは出せない、手送り旋盤特有の微細なツールマーク(切削痕)が残っている。……これは、昭和十二年、川崎車輛でC57の初期型が製造された際、給水ポンプの心臓部に試作された『幻の真鍮歯車』だ」
「え……? C57の、給水ポンプ……?」
「そうだ。蒸気機関車は、高圧のボイラーの中に冷たい水を押し込まねばならん。その水量をミクロン単位で制御するために、かつて小郡機関区の鍛冶工たちが寝る間を惜しんで削り出したと聞いている。……工藤金蔵。お前の曾祖父の名だな?」
恭平の心臓が跳ね上がった。
「あ、ああ……! 工場の古い帳簿に、曾祖父が小郡機関区でSLの部品を修理していた記録があった。でも、なぜ曾祖父は、こんな中途半端な歯車を遺したんだ? 軸受けの穴もないし、この星のマークだって、半分しか刻まれていない!」
恭平が指差した歯車の縁。
そこには確かに、五芒星の半分――三つの角だけが深く刻まれ、右半分はあらかじめ断ち切られたような奇妙な形状をしていた。
やまぐちは、火室の炎に歯車をかざした。
真鍮の表面が、紅蓮の光を吸い込んで妖しく底光りする。
「半分の星、か。……ふふ、我が妹の顔が浮かぶな」
「妹……?」
「いずれ分かる。お前が自らの手で、この歯車の本当の役割を思い出した時にな」
やまぐちは不敵に微笑むと、歯車を恭平の胸ポケットへと押し戻した。
プォォォォォォッ!!
ボイラーの安全弁が開き、白い蒸気が空高く吹き上がった。
出発の合図の汽笛が、新山口の街中に地響きのように轟く。
「よし、罐圧良好! 逆転機前進、出発進行である!」
やまぐちが叫んだ瞬間、巨大なシリンダーが蒸気を呑み込み、メインロッドが軋みを上げてピストンを押し出した。
ズズンッ……! と客車全体が大きく前後に揺れる。
動輪がレールを噛み、一回転、二回転と加速していく。
吐き出される黒煙が、初夏の青空を黒く染め上げ、山口線を北上する鉄路の旅が始まった。
「さあ、まずは腹ごしらえだ。火室の熱風を浴びた後は、喉を潤し、土地の命を胃袋に放り込むのが鉄路の鉄則である!」
やまぐちが白い歯を見せて笑う。
恭平の胸の奥で、冷え切っていた職人の血が、微かに熱を帯び始めていた。




