第105話:新山口駅の廃線路、冷え切った旋盤の手
新山口駅の在来線ホームの片隅、今はもう使われなくなった錆びた側線の前で、工藤恭平は冷え切った自らの両手を見つめていた。
三十一歳。作業着の袖口には、どれほど擦り洗いしても落ちない機械油と、真鍮や鋼を削り落とした微細な金属粉が黒ずんだ輪を描いて染み付いている。
指先は硬く角質化し、爪の縁はヤスリのようにざらついていた。
「……ただの、時代の遺物だよ」
自嘲の混じった呟きが、初夏の乾いた風にさらわれて消えた。
山口県下関市で八十年続いた精密金属加工工場『工藤精工』。
恭平は四代目として、ミクロン単位――千分の一ミリの狂いも許さない汎用旋盤の職人技を誇りに生きてきた。コンピューター制御の最新マシニングセンタが普及しても、「最後のコンマ数ミリの歪みと熱膨張を肌で読み取り、極上の嵌合を生み出すのは人間の指先だ」と信じて疑わなかった。
だが、現実は無慈悲だった。
先月、売上の八割を占めていた大手自動車部品メーカーから、唐突な通告が届いた。
『工藤さん、長年ありがとうございました。ですが、来期からのEV用モーター部品はすべて東南アジアの自動化メガファクトリーへ移管することになりました。納入単価を三分の一に下げていただけない限り、契約は今月末で終了です』
三分の一。それは材料費すら賄えない破滅の数字だった。
銀行からの融資返済の督促状。
父親の代から三十年、工場を支えてくれた二人の熟練工に、涙を流しながら退職金を渡した先週の金曜日。
がらんとした工場に残されたのは、油の匂いと、電源を落とされて沈黙する三台の旋盤だけだった。
「俺が……親父たちの工場を潰したんだ。いくら指先の技を磨いたって、デジタルの大量生産の前にはゴミクズ同然だった……」
胸ポケットにねじ込んだ破産申請の手続き書類。
その書類の隙間から、古びた真鍮の小さな塊が転がり落ちそうになった。
恭平は慌ててそれを掌に受け止めた。
直径五センチほどの、鈍い黄金色を放つ歯車。
工場の金庫の奥、戦前に小郡(現・新山口)機関区で鍛冶工を務めていた曾祖父・金蔵の遺品箱から見つかったものだ。
歯の形状は現代のインボリュート曲線とは異なり、極めて手間の掛かるサイクロイド曲線を手作業で削り出している。だが、不思議なことに、軸受けの真ん中には針を差し込む穴がなく、縁には「星のマーク」が半分だけ、何かで断ち切られたように打たれていた。
「金蔵爺さん。あんたは一体、何のためにこんなものを作ったんだ……」
曾祖父の生きた時代を確かめれば、少しは諦めがつくだろうか。
そんな惨めな逃避行の末に辿り着いたのが、かつて曾祖父が汗を流したというこの小郡の地だった。
その時だった。
作業着のズボンのポケットの奥で、カサリと硬い紙が触れ合った。
引き出してみると、それは今朝、下関駅の券売機で切符を買った際、釣銭口の奥に挟まっていた奇妙な一枚の紙片だった。
昔懐かしい、厚みのある活版印刷用の硬券。
行先も、日付も、運賃もない。
ただ中央に、深い深紅と黒の墨文字で、こう刻まれていた。
――『風の切符』
「風の切符……? 誰のイタズラだ……」
恭平が眉をひそめた、その瞬間だった。
ゴォォォォォォッ!!
突如として、背後の跨線橋の下から、耳をつんざくような激しい蒸気の排気音が鳴り響いた。
地響きとともに、線路の敷石がビリビリと激しく震動する。
立ち込める、濃厚な石炭の焦げる匂いと、焼けた機械油の匂い。
「な……なんだ!?」
恭平が弾かれたように振り返ると、廃線路の向こうの蒸気機関車留置線から、一両の巨大な鉄の怪物が、白煙を猛烈に噴き上げながら姿を現した。
漆黒の車体。
磨き上げられた巨大な動輪は、恭平の背丈ほどもある。
ボイラーの側面に輝く真鍮のプレート――『C57 1』。
「貴婦人」の愛称で知られる、日本を代表する名機・SLやまぐち号の牽引機だった。
そして、その炭水車のステップから、一人の少女が軽やかにホームの敷石へと飛び降りてきた。
漆黒のクラシカルな軍服風ショートジャケットに、ゴールドのモール飾りが施された肩章。
煤を恐れぬ純白の細プリーツスカートに、分厚い黒革の編み上げ長靴。
艶やかな黒髪を凛々しい高めのポニーテールに結い上げ、首元には真鍮フレームの防塵ゴーグルが誇らしげに光っている。
両手には油と熱に耐える分厚い牛革の手袋。
そして、その双眸――火室の燃え盛る石炭のように、紅蓮の炎を宿した瞳が、恭平を射抜くように見据えていた。
「おい! そこの下を向いている男!」
凛とした、しかし大砲の轟音のように芯の通った少女の声が響いた。
「線路の敷石を数えてため息をつく暇があるなら、火室の石炭の一塊でもスコップで放り込んでみろ! そんな死んだ魚のような目で、よくも曾祖父の歯車を握っていられるものだな!」
「な……君は誰だ!? それに、どうして曾祖父の歯車のことを……!」
「私は『やまぐち』。山陰と山陽を分かつ中国山地を貫き、鉄路の火を燃やし続ける蒸気機関車の魂――鉄路の長女である!」
少女――やまぐちは、腰に佩いた真鍮の杖をカツンと敷石に打ち鳴らした。
「風の切符を持つ迷い人、工藤恭平。お前のその凍りついた手首に、もう一度、鉄と炎の熱量を思い出させてやろう。……乗れ! 貴婦人のキャブへ!」
拒絶する間もなく、恭平はやまぐちの力強い革手袋に腕を掴まれ、蒸気と黒煙が渦巻く機関車の足元へと引きずり込まれていった。
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