第103話:妻への詫び状、朝霧の保津峡を越えて
午前五時。
客室『ザ・スイート』のリビングに置かれたライティングデスク。
デスクライトの柔らかな明かりの下で、宮内は万年筆を握りしめていた。
萩の歴史小説家・中原蓮がくれた、真鍮の重みのある万年筆。
そして、鳥取の藤堂栞が漉いてくれた、純白の手漉き因州和紙の便箋。
三十年間、決して書くことのできなかった手紙。
妻・文乃への、心の底からの手紙を、宮内は書き始めた。
『――文乃へ。
三十年間、ずっと謝りたかった。
お前が一人で苦しんでいた時、そばにいてやれなくて本当にすまなかった。
お前を犠牲にしてまで続けた仕事に、何の意味があったのかと、俺はずっと自分を責め続けて生きてきた。
だが……今夜、俺は奇跡のような列車に乗ったよ。
西日本の山河を巡る『瑞風』という列車だ。
文乃、驚かないで聞いてほしい。
俺がかつて走り回り、守り抜いたレールの上で、たくさんの若い人たちが立ち止まり、傷を癒やし、新しい命を吹き返していた。
香住の料理人も、瀬戸内の女性も、出雲の友たちも、長州の作家も、丹波の料理人も……みんな、俺たちが守った鉄路の上で、笑顔を取り戻していたんだ。
お前が昔、宍道湖の夕陽を見ながら言ってくれたね。
「創さんの走らせる電車に乗って、たくさんの人が大好きな人に会いに行ける。世界で一番素敵なお仕事ね」と。
あの一言が、俺の人生のすべてだった。
お前のあの言葉があったからこそ、俺は今日まで生きてこられたんだ。
文乃、ありがとう。
俺たちの歩んだ道には、こんなにも美しく、温かい花が咲いていたよ。
俺はもう、自分の人生を後悔しない。
お前が愛してくれたこの鉄路を、誇りに思って、胸を張って生きていくよ』
最後の一行を書き終えた時、便箋の上にポタリと一滴の涙が落ち、和紙の繊維に滲んで吸い込まれていった。
ガタゴト、ガタゴト……。
瑞風が速度を落とした。
カーテンを開けると、そこは朝霧の立ち込める保津峡の渓谷だった。
山あいに漂う深い霧の切れ間から、エメラルドグリーンの激流が顔を覗かせている。
そして、列車が渡る高い鉄橋の袂。
朝日に照らされた岩の上に、麦わら帽子をちょこんとのせた少女が立っていた。
生成り色の野良着に、茜色と若草色の前掛け。
腕に朝採れの野菜を詰めた竹籠を抱えた、嵯峨野トロッコの鉄娘――『さがの』だ。
さがのは、ゆっくりと橋を渡る瑞風の窓に宮内の姿を認めると、満面の笑みを咲かせ、麦わら帽子を脱いで大きく宙に振った。
「宮内のおっちゃん! ええ旅やったかー!」
「野菜も豆も、みんなおっちゃんのおかげで生きてるんやでー!」
「長生きしぃやー! またトロッコ乗りにきぃやー!」
澄み切った少女の声が、初夏の青嵐に乗って、保津峡の谷あいに木霊した。
宮内は窓ガラスに額を押し当て、力強く手を振り返した。
「ああ! ありがとう、さがのちゃん! また乗りに来るよ! 必ず乗りに来る!」
朝霧を切り裂いて差し込んできた黄金色の太陽の光が、保津峡の激流を、瑞風の深緑の車体を、そして宮内の顔を眩いばかりに照らし出した。
胸の奥にあった冷たい棘は、完全に消え去っていた。
老いた心臓は、まるで新緑の若葉のように瑞々しく、力強い拍動を刻んでいた。
列車は保津峡のトンネルを抜け、終着駅――京都駅へと向かって、最後の直線コースへと滑り出していった。




