↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
103/214

第103話:妻への詫び状、朝霧の保津峡を越えて

午前五時。

 客室『ザ・スイート』のリビングに置かれたライティングデスク。

 デスクライトの柔らかな明かりの下で、宮内は万年筆を握りしめていた。

 萩の歴史小説家・中原蓮がくれた、真鍮の重みのある万年筆。

 そして、鳥取の藤堂栞が漉いてくれた、純白の手漉き因州和紙の便箋。

 

 三十年間、決して書くことのできなかった手紙。

 妻・文乃への、心の底からの手紙を、宮内は書き始めた。

 

『――文乃へ。

 三十年間、ずっと謝りたかった。

 お前が一人で苦しんでいた時、そばにいてやれなくて本当にすまなかった。

 お前を犠牲にしてまで続けた仕事に、何の意味があったのかと、俺はずっと自分を責め続けて生きてきた。

 だが……今夜、俺は奇跡のような列車に乗ったよ。

 西日本の山河を巡る『瑞風』という列車だ。

 

 文乃、驚かないで聞いてほしい。

 俺がかつて走り回り、守り抜いたレールの上で、たくさんの若い人たちが立ち止まり、傷を癒やし、新しい命を吹き返していた。

 香住の料理人も、瀬戸内の女性も、出雲の友たちも、長州の作家も、丹波の料理人も……みんな、俺たちが守った鉄路の上で、笑顔を取り戻していたんだ。

 

 お前が昔、宍道湖の夕陽を見ながら言ってくれたね。

 「創さんの走らせる電車に乗って、たくさんの人が大好きな人に会いに行ける。世界で一番素敵なお仕事ね」と。

 あの一言が、俺の人生のすべてだった。

 お前のあの言葉があったからこそ、俺は今日まで生きてこられたんだ。

 

 文乃、ありがとう。

 俺たちの歩んだ道には、こんなにも美しく、温かい花が咲いていたよ。

 俺はもう、自分の人生を後悔しない。

 お前が愛してくれたこの鉄路を、誇りに思って、胸を張って生きていくよ』

 

 最後の一行を書き終えた時、便箋の上にポタリと一滴の涙が落ち、和紙の繊維に滲んで吸い込まれていった。

 

 ガタゴト、ガタゴト……。

 瑞風が速度を落とした。

 カーテンを開けると、そこは朝霧の立ち込める保津峡の渓谷だった。

 

 山あいに漂う深い霧の切れ間から、エメラルドグリーンの激流が顔を覗かせている。

 そして、列車が渡る高い鉄橋の袂。

 

 朝日に照らされた岩の上に、麦わら帽子をちょこんとのせた少女が立っていた。

 生成り色の野良着に、茜色と若草色の前掛け。

 腕に朝採れの野菜を詰めた竹籠を抱えた、嵯峨野トロッコの鉄娘――『さがの』だ。

 

 さがのは、ゆっくりと橋を渡る瑞風の窓に宮内の姿を認めると、満面の笑みを咲かせ、麦わら帽子を脱いで大きく宙に振った。

 

「宮内のおっちゃん! ええ旅やったかー!」

「野菜も豆も、みんなおっちゃんのおかげで生きてるんやでー!」

「長生きしぃやー! またトロッコ乗りにきぃやー!」

 

 澄み切った少女の声が、初夏の青嵐に乗って、保津峡の谷あいに木霊した。

 宮内は窓ガラスに額を押し当て、力強く手を振り返した。

 

「ああ! ありがとう、さがのちゃん! また乗りに来るよ! 必ず乗りに来る!」

 

 朝霧を切り裂いて差し込んできた黄金色の太陽の光が、保津峡の激流を、瑞風の深緑の車体を、そして宮内の顔を眩いばかりに照らし出した。

 

 胸の奥にあった冷たい棘は、完全に消え去っていた。

 老いた心臓は、まるで新緑の若葉のように瑞々しく、力強い拍動を刻んでいた。

 

 列車は保津峡のトンネルを抜け、終着駅――京都駅へと向かって、最後の直線コースへと滑り出していった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。