第101話:ダイナープレヤデス、九つの風のフルコース
六号車、食堂車『ダイナープレヤデス』。
ドアをくぐった宮内は、その荘厳な美しさに圧倒され、息を呑んだ。
深緑色の絨毯が敷き詰められた通路の両脇に、真鍮のモールディングが施されたクラシカルなテーブル席。
天井からは、夜空のプレヤデス星団を象徴する無数のクリスタルシャンデリアが輝き、温かな琥珀色の光が、純白のテーブルクロスと銀のカトラリーを照らし出している。
窓際の特等席に案内された宮内の前に、オープンキッチンのガラス扉が開き、一人の若き料理人が姿を現した。
清潔な白衣を身にまとい、腰には凛とした前掛け。
――第九章の旅人、京都・祇園『千歳庵』の花板・栗山陽介だった。
「宮内様、初めまして」
陽介は深々と一礼した。その双眸は澄み渡り、肩の力は完全に抜けている。
「今宵、厨房を任されました栗山陽介と申します。……私はかつて、自分の技術を誇示することばかりに溺れ、食材の命を踏みにじっていました。けれど、トロッコの鉄娘『さがの』に連れられ、丹波篠山の黒い土に素手で触れ、本当の料理の意味を教わりました。今夜は……西日本が誇る九つの風土と、そこに生きる人々の命を、ただひたすらに生かす『円環のフルコース』をお仕立ていたしました」
陽介が厨房へと戻ると、最初の一皿が運ばれてきた。
輪島塗の朱塗りの銘々皿に盛られた、前菜。
『香住ガニと勝浦生まぐろのタルタル、瀬戸内レモンのジュレ仕立て』。
越前打刃物の銀のフォークで一口すくう。
日本海の荒波が育んだ香住ガニの繊細な甘みと、黒潮の海を泳ぎ抜いた勝浦マグロのもっちりとした濃厚な赤身の旨味。
そこへ、瀬戸内の太陽を浴びたレモンの鮮烈な酸味が絡み合い、口の中で北と南の海が完璧に調和する。
「……素晴らしい」
宮内は呟いた。
「二つの海が、互いを打ち消すことなく、手を取り合って引き立て合っている……」
続いて運ばれてきたのは、因州和紙を模した薄引き湯葉で包まれた、魚料理。
『若狭甘鯛の松笠焼き、宍道湖しじみと出雲地酒のエッセンス』。
パリパリと心地よい音を立てて砕ける甘鯛の鱗。その中から溢れ出す白身のふくよかな水分と、宍道湖のしじみのオルニチンが凝縮された濃厚なスープ。
越前の白二鋼のナイフが、繊維を一切潰さずに甘鯛を切り分ける。
そして、メインディッシュ。
白木のお椀に注がれた、至高の一碗。
『丹波篠山の黒土が育んだ賀茂茄子の揚げ浸し、丹波黒豆の煮含め、萩の夏みかんの薫香』。
蓋を開けた瞬間、昆布と鰹の一番出汁の神聖な湯気とともに、萩の夏みかんの清冽な香りが立ち上る。
宮内は両手でお椀を持ち上げ、出汁を一口啜った。
「――っ……!!」
全身の細胞が、歓喜の震えを上げた。
五十年かけて耕された丹波の黒土の温もり。
保津峡を吹き抜ける若葉の青嵐。
長州の海を見つめた百五十年前の志。
そして、日本の大地を愛し、命を繋いできた無数の人々の祈りが、たった一口の出汁の中に、広大無辺な宇宙となって満ち溢れていた。
茄子は舌の上で溶けるように解け、黒豆は力強いコクを放ち、夏みかんの皮が爽やかな風となって喉を駆け抜けていく。
余計な調味料など何もない。
ただ、素材そのものが持っている命の尊厳が、極限まで引き出されていた。
宮内の目から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ち、テーブルクロスを濡らした。
「……美味い……。本当に、美味い……」
宮内は咽び泣きながら、出汁の最後の一滴までを飲み干した。
かつて自分が走らせた列車が、この若者を丹波へと運んだ。
そして若者が土の誇りを取り戻し、いま、老いた自分にこれほどの命の奇跡を食べさせてくれている。
人と人は、鉄路を通じて繋がっている。
命と命は、大地を通じて循環している。
自分が生きてきた六十八年の歳月は、この奇跡の円環の一部だったのだ。
「ごちそうさまでした、栗山君。……俺の心臓は、今、人生で一番元気に動いているよ」
宮内が涙を拭いながら頭を下げると、陽介もまた、胸元を詰まらせて深々と頭を下げた。
食堂車のシャンデリアが、二人の料理人と鉄道マンの絆を、神聖な光で包み込んでいた。




