Episode 2
——意識が、ゆっくりと浮き上がる。
長い、長い眠りの底から。
最初に感じたのは、肩に触れる、誰かの手の温かさだった。
(……あたたかい……)
ゆっくりと、目を開ける。
視界に映ったのは——見覚えのない、薄汚れた服を着た少年の顔。
心配そうに、こちらを覗き込んでいる。
「……っ」
(誰……? ここ、は……)
少女——フィーネは、まだ働かない頭で、必死に状況を整理しようとした。
(このカプセルは……私以外、誰も開けられないはず……)
長い眠りの中で、唯一はっきりと刻み込まれていた記憶。このカプセルのロックは、フィーネ自身の生体情報以外、何も受け付けない——そのはずだった。
(じゃあ、この人は……どうやって……)
目の前の少年は、どこにでもいる、ただの人間にしか見えない。魔法の気配も、特別な力の気配も感じない。
なのに、開けた。
フィーネは、状況が理解できないまま、ただ目の前の少年と目を合わせて——固まっていた。
***
一方のアルトも、固まっていた。
目を開けた少女と、視線が合った瞬間——
「……っ」
長い眠りから目覚めたばかりとは思えない、澄んだ青の瞳。柔らかな白銀の髪が、白い蒸気の中でゆっくりと揺れている。
アルトは、思わず言葉を失った。生まれて初めて見るような、整った顔。
(い、いや……っ、何見てんだオレ……! 今そんな場合じゃ……っ!)
駆動音が、確実に近づいてきている。アルトは慌てて頭を振り、何とか声を絞り出した。
「あ、あの……っ、その……っ」
頬が熱くなるのを感じながら、アルトは早口で続けた。
「えっと……戦闘用の機械が、こっちに来てる……っ。多分、オレたちのこと探してる。だから……早く、ここから逃げないと……っ!」
言いながら、アルトは少女の手を取った。
「ご、ごめん……っ、急ぐから……!」
ぐいっと手を引き、カプセルから下ろす。少女の足が地面に着いた瞬間、少しふらついた。長い間使っていなかった体は、まだ上手く動かないようだった。
「大丈夫か……っ? ちょっと、頑張って走れる……?」
「……っ、え、あ……」
フィーネは、状況を理解する間もなく、強い力で手を引かれていた。
(待って……っ、まだ、何も……)
聞きたいことが、山のようにある。この場所はどこなのか。どうしてこの少年は自分を起こしたのか。さっき言っていた「戦闘用の機械」とは、何なのか。
だが、考える間もなく、足は勝手に動いていた。手を引かれるまま、転びそうになりながら、無我夢中で走る。
「な、なん……っ、何が、起きて……っ」
「悪い、説明は後で……っ! とにかく今は……」
その時だった。
二人が走り出した先——崩れた壁の向こうから。
ゆっくりと、赤い光が二つ、こちらを向いた。
『——発見。対象、二名』
重低音の機械音声が、廃墟に響き渡る。
先ほどアルトを追っていた戦闘機械が、瓦礫の上に立ち、こちらを見下ろしていた。
「……っ、マジか……っ!」
アルトは咄嗟にフィーネを庇うように前に出る。フィーネは、突然のことに、ただ硬直することしかできなかった。
戦闘機械の両腕が、再びけたたましい駆動音を立てて展開する。
『排除——対象。実行する』
「……っ、くそ……っ!」
アルトは咄嗟に周囲を見渡した。逃げ場はない。あの速度で追いつかれたら、終わりだ。
(何か……何か使えるものは……)
その時、視界の端に映ったのは——瓦礫の中に転がる、いくつかの古い機械の残骸だった。
小型の作業用ドローン。錆びついた搬送ロボット。動力は切れているが、辛うじて機体の形は残っている。明らかに知能を持たない、ただの旧式機械だ。
(あれなら——触れる。触れれば、動かせる)
アルトは地面に手をついた。
いつものように、構造を「視る」。だが今度は、一つの機体だけじゃない。視界に入る、すべての残骸に向かって、意識を一気に広げる。
「……っ、頼む……っ!」
頭の奥が、ガリガリと痛む。複数の機体の制御回路に、同時に「動け」という命令を流し込む。知能のない機械だからこそ、複雑な思考は必要ない。単純な命令——「動け」「向かえ」——それだけでいい。
ブーン、と低い音が、廃墟のあちこちで響いた。
錆びついたドローンや搬送ロボットが、ガタガタと震えながら、一斉に起動する。
『——警告。未識別の駆動信号を検知』
戦闘機械のセンサーが、一瞬、アルトたちから周囲の残骸へと向いた。
「今だ……っ!」
アルトはフィーネの手を強く引き、起動した残骸の群れの間を、低い体勢で駆け抜けた。
残骸たちは、操られるまま、ふらふらと戦闘機械に向かって突っ込んでいく。ぶつかり、転がり、視界と進路を塞ぐ——ただそれだけのものだったが、効果は十分だった。
『——障害物。排除を——優先』
戦闘機械の腕が、突っ込んでくる残骸を薙ぎ払う。鈍い金属音と、火花が散った。
その隙を突いて、アルトとフィーネは戦闘機械の側面——ちょうど脚のすぐ横を、すり抜けるように走った。
「っ……今しか、ない……っ!」
アルトは走りながら、すれ違う瞬間、戦闘機械の脚部に向かって手を伸ばした。
指先が、装甲の一部にほんの一瞬、触れる。
その瞬間、頭の中に回路図が流れ込む——膝関節の制御プログラム。アルトは、ほとんど反射的に、その一部に「矛盾した命令」を捻じ込んだ。
(曲がれ、と——伸びろ、を、同時に……っ!)
「うあああっ……!」
短い悲鳴のような声が、アルトの口から漏れた。脳に直接、針を刺されたような痛みが走る。視界が一瞬、白く点滅した。
『——エラー。膝部、関節——』
戦闘機械の片脚が、奇妙な方向に折れ曲がった。バランスを崩し、巨体が大きく傾く。
ガラガラガラッ、と瓦礫の山を巻き込みながら、戦闘機械はその場に倒れ込んだ。
「……っ、う……っ」
アルトは、走る勢いのまま、その場に倒れそうになる。頭が割れるように痛い。視界がぐらぐらと揺れていた。
「……っ、危ない……!」
フィーネが、咄嗟にアルトの体を支えた。
(今……この人が、機械の脚に触れた、瞬間——)
倒れ込んでいく戦闘機械の姿が、フィーネの目の奥に、まだはっきりと残っていた。触れた直後に、明らかに様子が変わった。あれは、偶然ではない。
(もしかして……この人の力は、機械を操作する力……?)
「ごめ……っ、ちょっと、目が……回って……」
「喋らなくていい……っ、走れる……? まだ近くにいるはず……っ!」
フィーネに支えられながら、アルトは何とか足を動かした。背後で、倒れた戦闘機械が起き上がろうともがく音が響いている。
二人は、それ以上振り返らずに、廃墟の奥へと走り続けた。
***
しばらく走り、駆動音が完全に聞こえなくなったところで、二人はようやく足を止めた。
崩れたビルの陰に身を隠し、アルトはその場にへたり込む。
「は……っ、はぁ……っ……」
頭の痛みは、まだ少し残っている。だが、命に関わるほどではない——多分。
「……だい、じょうぶ……?」
フィーネが、心配そうにアルトの顔を覗き込んだ。
「あ……うん……っ、大丈夫。ちょっと……無理しただけ」
アルトは深呼吸をして、ようやく顔を上げた。
改めて見ると、目の前にいる少女は——本当に、不思議な存在だった。
(こんな子が、なんで、あんなカプセルの中に……?)
眠っていた理由も、あの場所が何なのかも、何も分からない。アルトはそんな疑問を抱きながら、口を開いた。
「えっと……ごめん、急に色々あって。改めて……大丈夫だった? 体、変な感じしない?」
「うん……平気。それより——」
フィーネは、まっすぐにアルトを見た。
「……ありがとう。助けてくれて」
その言葉に、アルトは少し驚いたように瞬きをした。
「い、いや……っ、たまたま見つけただけで……」
(……たまたまでも、来てくれた。それだけで、十分だった)
フィーネは、ゆっくりと周囲を見渡した。崩れた建物。錆びた機械。灰色の空。
長い眠りから目覚めて初めて見る景色は——どこか、寂しい色をしていた。
「……ここは、どこ?」
フィーネの呟くような問いに、アルトは少し考えてから、答えた。
「ここは……廃墟。アイゼン・ヴェルトの、外れの方。オレは、向こうの——マギー・ライヒから来た」
「マギー・ライヒ……」
フィーネは、その名前を、ゆっくりと繰り返した。
知っているはずの言葉なのに、どこか遠い記憶のように感じる。長い眠りが、自分の中の何かを、薄く曖昧にしてしまったような気がした。
アルトは、ふと気になって尋ねた。
「……なあ、君、名前は?」
フィーネは、少しの間、考えるように目を伏せた。
長い眠りの中で、唯一はっきりと覚えていた、自分の名前。
「……フィーネ」
「フィーネ、か」
アルトは、小さく笑った。
「オレは、アルト。よろしく、フィーネ」
——その名前と、声を聞いた瞬間。
フィーネの中で、何かが小さく、揺れた。
(アルト……?)
ぼんやりとした、霧の向こうにあるような感覚。長い眠りの底に沈んでいた、ずっと昔の記憶の欠片が、微かに——本当に微かに、光を放った。
(……知ってる……? この名前……この、声……)
はっきりとした記憶ではない。誰だったのか、いつのことだったのかも、思い出せない。それでも、確かに「懐かしい」と感じた。
そして——なぜか、確信が芽生える。
(この人の力は……機械を操作する力。それで、間違いない)
さっき見た光景から推測したはずのことなのに、それ以上の——まるで、もっと前から知っていたかのような、奇妙な確信だった。
「……っ」
フィーネは、わずかに目を見開いたまま、アルトを見つめた。
誰かに名前を呼ばれる。誰かと、言葉を交わす。
それが、どれほど久しぶりのことか——フィーネ自身にも、よく分からなかった。
ただ、目の前のこの少年に対して、覚えのない「懐かしさ」を感じている自分が、確かにいた。




