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海にゆらぐ泡のごとく  作者: 北海 犬丸


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7

「――っ!」

 倒れるように膝をつき、ひたすら地面に拳を打ち付ける。

 腹の奥の何かが口から溢れ出そうになる。それが苦しくて、吐き出したくて、出来なくて、ただ地面を殴ることしかできない。

 涙が溢れて止まらない。乾いた岩肌は、あっという間に色を濃くする。

 喘ぐような呻き声が漏れて、拳から血が滲んでいても、やめなかった。

 自分は何をした。仲間を、殺した。命さえ預けた友を。

 咄嗟だったとはいえ、何故自分は銃を手に取ったのだ。

 綺麗な手は、血に染まった。それも敵ではない、護るべき仲間の血で。

「――、――――っ!」

 叫び出したい。でも、声にならかった。

 禍々(まがまが)しい(よど)みが頭から全身を覆いつくす。肺に入り込んで、水に溺れたように呼吸が苦しい。

 耳鳴りがする。

 視界がチカチカと点滅する。

 全身が燃えるように熱い。

 加藤は焦点の合わない目を、拳銃に向ける。

 あれならば、命を断つことが出来る。同胞を殺した罪を償える。靖国へ行き、長倉にただひたすら謝ることが出来る。

 無意識に伸ばしそうになる手を、理性がぐっと抑えていた。まるで自分の中にもう一人の別の自分がいるかのようだ。

 荒い呼吸の音が、やけに耳につく。それ以外、何も聞こえない。すべての音が消え去ってしまったかのようだ。

 鼻にへばりついた血の匂いが、酷く気持ち悪い。

 内側から食い破られそうで、その一歩手前で耐えているようだった。

 ――加藤、一緒に逝こう。

 長倉の声が脳裏に響く。それが正しい気さえした。

 耳の奥で、それは駄目だと警鐘が鳴っている。けれど、ぐわんぐわんと揺れる頭には、遠い。

 どうすればいいのか分からない。どうしたら、この言いようのない衝動は収まってくれるのだろうか。何をするのが正しくて、間違っているのか。

 自分は何をしていたのだったか。そうだ、遺書を届けなければならないのだ。

 でももう、そんなのどうでもいいじゃないか。仲間を殺して、のうのうと生きて帰るのか。それで自分は、長倉の家族に何というのか。立派な最期だったとでも言うつもりか。

 立派なんかじゃない、自分が殺したのだから。

 握り締められた拳には爪が食い込み、血が滲んでいる。

 深い闇に突き落とされたような感覚が、加藤を苛んで離さない。

 腹を暴れまわる泥濘が、いっそ内側から食い破ってくれればいいのに。

「加藤!」

 ふと、耳慣れた声が聞こえた。

 加藤はその声に、ゆっくりと自分を取り戻していくのを感じる。

 吉野の声だ。彼の声だけが、耳鳴りすらも突き破って、はっきりと耳に届いた。

「加藤、もうやめろ、やめてくれ!」

 泣き出しそうな声に、加藤はゆっくりと声の主を見る。

 吉野の手は、いつの間にか加藤の拳を包んでいた。

「加藤、あの状況じゃ、仕方なかったんだ。君のせいじゃないよ。長倉だって、きっと分かっていて、あんな行動に出たんだ。あいつの最期の言葉、聞いただろ?」

 吉野が伝わるようにゆっくりと、優しく語りかけて来る。

 少しずつ視界が晴れていく。清水が泥を洗い流し、少しずつ小さくなっていく。

 長倉の最期の言葉。少佐のもとにやっと逝けると、立派に死ぬんだと、そう言っていた。

「冷たいなんて言って、ごめん。本当は君が優しい奴だって、知っていたのに。」

 そんなことを言われただろうか考えを巡らせて、そういえば昨日言われていたと思い出した。そう思われても仕方なかったから、吉野を責める気持ちなんて欠片も無かった。

「加藤、あんまり、自分を責めないで。長倉にとって、きっと幸せなことだった。俺はそう思うよ。あんなに、穏やかな顔をしているんだから。」

 吉野に言われ、長倉を見る。眠るように、穏やかに微笑んでいる。

 死地を求めていた長倉にとっては、仲間の手で死ぬことは幸いだったのだろうか。それによって、加藤がどのような気持ちになるかなど、どうでも良かったのだろうか。なんとも、勝手な奴だ。

「長倉は、立派に死んだ。それでいいじゃない、ね?」

 宥める声が、荒れ狂っていた濁流を鎮めていく。

 吉野の言葉に、加藤は静かに頷いた。

 そうだ、それでいい。皆、立派な最期だったのだ。それを証明するために、自分はこの場所に来た。舟を出して、遺書を届けて、彼らの最期を遺族へ伝えるのだ。それが、彼らの遺したかったものなのだから。

 真実よりも、大切なことがある。彼らが遺したかった気持ちを、きちんと届けなければ。

 加藤はゆらりと立ち上がる。

「行こう、吉野。」

「……うん、行こう。」

 吉野は、加藤の麻袋を奪って担いだ。彼の持っていた分もあるのに、どうやら持ってくれるらしい。

「俺が持つ。」

「良いよ、気にしないで。」

 吉野がそう言って歩き出してしまったので、加藤は仕方なく後に続いた。

 そこでふと違和感を覚えて、視線を腹部へと下げる。

「……。」

 吉野へ声を掛けようとして、やめた。彼が気付いていないならば、それでいい。

 加藤は懐から手帳を取り出して、彼らの住所が書かれた頁を破る。そして、こっそり雑嚢(ざつのう)の中へと差し込む。

 吉野はいつも背中側へ下げる癖があって、よく叱られていた。しかし、今回ばかりは助かった。これで、彼はそのうち走り書きに気が付くはずだ。

 腰帯をキュッと締める。止血も兼ねているが、血が下へ落ちることを防ぐためだった。

 ぬるい鉄の味が、喉の奥に広がる。痛みはないが、出血は多いだろう。

 幸いまだ陽は昇り始めたばかりで薄暗いし、服も汚れている。それに加藤のいる方は風下だ。吉野がまじまじと見ない限りは、気が付かないはず。

 先ほど近くに居た時に気が付かなかったのは、それどころでは無かったからか。だがそうでなくても、そもそも鼻が慣れてしまうほどに、加藤も吉野も嗅ぎ過ぎていた。

 長倉の放った弾丸は、加藤の腹部を捉えていた。おそらく長倉も気付いていない。道連れにするという彼の最期の願いは、近いうちに果たされる。

「加藤、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ。ちょっと、考え事をしてた。」

「考えすぎないで。木舟までもう少しだから。考えるのは、全部終わった後だよ。」

「そうだな。」

 歩みが遅くなった加藤を心配して、吉野が一瞬振り返る。ひやりとしたが、気が付かなかったようだ。

 加藤は軽く息を吐いて、歩みを速くした。足から力が抜けそうになるのを、気合で持ちこたえる。踏み出すたびに水面のように地面が揺れても、加藤は倒れなかった。

 せめて吉野が木舟に乗り込むまでは、耐えなければ。ここで足を止めては、吉野が惑ってしまうかもしれない。

 それに、もし自分の治療をしていては、海が凪いでいる時間を過ぎてしまう。ただでさえ長倉の一件で遅くなっている。安全なうちに舟を出すには、他に気を取られている場合ではない。

「大島、まだ人が居ると良いな。」

「そうだね。もしすでに皆が経った後だったら……いや、きっと大丈夫だよ。俺達が居ることを知っているはずだし。もし米兵が居たら……その時は、先生に習った挨拶だね。」

「そうだな。アイ アム カトウ。ナイス トゥー ミート ユー。」

「はは、完璧。驚かれてうっかり撃たれないように気を付けないと。」

「それは……洒落にならないな。」

 困ったように言った加藤の言葉に、吉野が笑う。元気になったように見えるけれど、気丈に振舞っているのは明白だった。彼だって、長倉の死に何も感じていないはずが無いのだ。

 (だいだい)色の光が辺りを包み、紫の空に浮かんでいた星は数を減らしていた。

 霞みかけた視界を、瞬きで誤魔化す。気を抜けば意識を持って行かれるのは確実だった。

 拳銃による傷口は大きくはないから、一気に血を持って行かれることはない。けれど、じわじわと死は迫っている。

 運が良ければ助かるかもしれない。後のことは、ただ天運に任せるしかない。

「加藤、アレ!」

 五分ほど歩いたところに、木舟があった。手漕ぎのそれは、木を繰り抜いて整えただけだが、それなりの大きさがあり頑丈だ。食料確保のために海に釣りに出かけていた連中が、使っていたものである。

 近付いて、状態を確認する。問題なさそうだ。少なくとも、三時間の航海は無事に終えてくれそうである。

「吉野、先に乗って、麻袋を受け取ってくれ。」

「分かった。」

 吉野はその場に麻袋を置いて、先に乗り込む。舟が転覆しないように慎重に均衡を保ちながら、安定したところで加藤を見た。

「よし、それじゃあ、渡して。」

「気を付けろよ。」

 震えそうになる手を耐えて、加藤は吉野に一つ麻袋を渡した。吉野はずっしりとした重みを、慎重に受け取る。

 木舟にそれを置き、再び揺れが落ち着いたところで、吉野はまたこちらを見た。

 二つ目の麻袋を渡す。一瞬腹部に触れそうになって、慌てて離す。

「加藤?」

「あ、すまん。手首が変に捻じれて。今、渡すから。」

 怪訝な表情を浮かべた吉野に、慌てて言い訳をする。どうやら深く疑問を持たなかったようで、吉野はそのまま受け取った。

 味方の負傷には気が付く方だった彼が、加藤の状態に気付く様子はない。気が逸っているのか、それともやはり心の内では動揺が続いているのか。いずれにせよ、加藤にとっては好都合だった。

 澄んだ空気に、穏やかな海。争いなど嘘だったかのような、静寂。

 見納めるように、加藤と吉野は島を眺めた。

 木々は紅葉のように色づいて、綺麗だ。まるで見送りの言葉でも囁くように、風に吹かれた木の葉が揺れる。

「……行こうか。」

「ああ、そうだな。」

 加藤が頷いて、木舟に乗り込もうとした、その時。

 遠くから、おーい、という声が聞こえた。加藤と吉野は海を見る。


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