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「――っ!」
倒れるように膝をつき、ひたすら地面に拳を打ち付ける。
腹の奥の何かが口から溢れ出そうになる。それが苦しくて、吐き出したくて、出来なくて、ただ地面を殴ることしかできない。
涙が溢れて止まらない。乾いた岩肌は、あっという間に色を濃くする。
喘ぐような呻き声が漏れて、拳から血が滲んでいても、やめなかった。
自分は何をした。仲間を、殺した。命さえ預けた友を。
咄嗟だったとはいえ、何故自分は銃を手に取ったのだ。
綺麗な手は、血に染まった。それも敵ではない、護るべき仲間の血で。
「――、――――っ!」
叫び出したい。でも、声にならかった。
禍々しい澱みが頭から全身を覆いつくす。肺に入り込んで、水に溺れたように呼吸が苦しい。
耳鳴りがする。
視界がチカチカと点滅する。
全身が燃えるように熱い。
加藤は焦点の合わない目を、拳銃に向ける。
あれならば、命を断つことが出来る。同胞を殺した罪を償える。靖国へ行き、長倉にただひたすら謝ることが出来る。
無意識に伸ばしそうになる手を、理性がぐっと抑えていた。まるで自分の中にもう一人の別の自分がいるかのようだ。
荒い呼吸の音が、やけに耳につく。それ以外、何も聞こえない。すべての音が消え去ってしまったかのようだ。
鼻にへばりついた血の匂いが、酷く気持ち悪い。
内側から食い破られそうで、その一歩手前で耐えているようだった。
――加藤、一緒に逝こう。
長倉の声が脳裏に響く。それが正しい気さえした。
耳の奥で、それは駄目だと警鐘が鳴っている。けれど、ぐわんぐわんと揺れる頭には、遠い。
どうすればいいのか分からない。どうしたら、この言いようのない衝動は収まってくれるのだろうか。何をするのが正しくて、間違っているのか。
自分は何をしていたのだったか。そうだ、遺書を届けなければならないのだ。
でももう、そんなのどうでもいいじゃないか。仲間を殺して、のうのうと生きて帰るのか。それで自分は、長倉の家族に何というのか。立派な最期だったとでも言うつもりか。
立派なんかじゃない、自分が殺したのだから。
握り締められた拳には爪が食い込み、血が滲んでいる。
深い闇に突き落とされたような感覚が、加藤を苛んで離さない。
腹を暴れまわる泥濘が、いっそ内側から食い破ってくれればいいのに。
「加藤!」
ふと、耳慣れた声が聞こえた。
加藤はその声に、ゆっくりと自分を取り戻していくのを感じる。
吉野の声だ。彼の声だけが、耳鳴りすらも突き破って、はっきりと耳に届いた。
「加藤、もうやめろ、やめてくれ!」
泣き出しそうな声に、加藤はゆっくりと声の主を見る。
吉野の手は、いつの間にか加藤の拳を包んでいた。
「加藤、あの状況じゃ、仕方なかったんだ。君のせいじゃないよ。長倉だって、きっと分かっていて、あんな行動に出たんだ。あいつの最期の言葉、聞いただろ?」
吉野が伝わるようにゆっくりと、優しく語りかけて来る。
少しずつ視界が晴れていく。清水が泥を洗い流し、少しずつ小さくなっていく。
長倉の最期の言葉。少佐のもとにやっと逝けると、立派に死ぬんだと、そう言っていた。
「冷たいなんて言って、ごめん。本当は君が優しい奴だって、知っていたのに。」
そんなことを言われただろうか考えを巡らせて、そういえば昨日言われていたと思い出した。そう思われても仕方なかったから、吉野を責める気持ちなんて欠片も無かった。
「加藤、あんまり、自分を責めないで。長倉にとって、きっと幸せなことだった。俺はそう思うよ。あんなに、穏やかな顔をしているんだから。」
吉野に言われ、長倉を見る。眠るように、穏やかに微笑んでいる。
死地を求めていた長倉にとっては、仲間の手で死ぬことは幸いだったのだろうか。それによって、加藤がどのような気持ちになるかなど、どうでも良かったのだろうか。なんとも、勝手な奴だ。
「長倉は、立派に死んだ。それでいいじゃない、ね?」
宥める声が、荒れ狂っていた濁流を鎮めていく。
吉野の言葉に、加藤は静かに頷いた。
そうだ、それでいい。皆、立派な最期だったのだ。それを証明するために、自分はこの場所に来た。舟を出して、遺書を届けて、彼らの最期を遺族へ伝えるのだ。それが、彼らの遺したかったものなのだから。
真実よりも、大切なことがある。彼らが遺したかった気持ちを、きちんと届けなければ。
加藤はゆらりと立ち上がる。
「行こう、吉野。」
「……うん、行こう。」
吉野は、加藤の麻袋を奪って担いだ。彼の持っていた分もあるのに、どうやら持ってくれるらしい。
「俺が持つ。」
「良いよ、気にしないで。」
吉野がそう言って歩き出してしまったので、加藤は仕方なく後に続いた。
そこでふと違和感を覚えて、視線を腹部へと下げる。
「……。」
吉野へ声を掛けようとして、やめた。彼が気付いていないならば、それでいい。
加藤は懐から手帳を取り出して、彼らの住所が書かれた頁を破る。そして、こっそり雑嚢の中へと差し込む。
吉野はいつも背中側へ下げる癖があって、よく叱られていた。しかし、今回ばかりは助かった。これで、彼はそのうち走り書きに気が付くはずだ。
腰帯をキュッと締める。止血も兼ねているが、血が下へ落ちることを防ぐためだった。
ぬるい鉄の味が、喉の奥に広がる。痛みはないが、出血は多いだろう。
幸いまだ陽は昇り始めたばかりで薄暗いし、服も汚れている。それに加藤のいる方は風下だ。吉野がまじまじと見ない限りは、気が付かないはず。
先ほど近くに居た時に気が付かなかったのは、それどころでは無かったからか。だがそうでなくても、そもそも鼻が慣れてしまうほどに、加藤も吉野も嗅ぎ過ぎていた。
長倉の放った弾丸は、加藤の腹部を捉えていた。おそらく長倉も気付いていない。道連れにするという彼の最期の願いは、近いうちに果たされる。
「加藤、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。ちょっと、考え事をしてた。」
「考えすぎないで。木舟までもう少しだから。考えるのは、全部終わった後だよ。」
「そうだな。」
歩みが遅くなった加藤を心配して、吉野が一瞬振り返る。ひやりとしたが、気が付かなかったようだ。
加藤は軽く息を吐いて、歩みを速くした。足から力が抜けそうになるのを、気合で持ちこたえる。踏み出すたびに水面のように地面が揺れても、加藤は倒れなかった。
せめて吉野が木舟に乗り込むまでは、耐えなければ。ここで足を止めては、吉野が惑ってしまうかもしれない。
それに、もし自分の治療をしていては、海が凪いでいる時間を過ぎてしまう。ただでさえ長倉の一件で遅くなっている。安全なうちに舟を出すには、他に気を取られている場合ではない。
「大島、まだ人が居ると良いな。」
「そうだね。もしすでに皆が経った後だったら……いや、きっと大丈夫だよ。俺達が居ることを知っているはずだし。もし米兵が居たら……その時は、先生に習った挨拶だね。」
「そうだな。アイ アム カトウ。ナイス トゥー ミート ユー。」
「はは、完璧。驚かれてうっかり撃たれないように気を付けないと。」
「それは……洒落にならないな。」
困ったように言った加藤の言葉に、吉野が笑う。元気になったように見えるけれど、気丈に振舞っているのは明白だった。彼だって、長倉の死に何も感じていないはずが無いのだ。
橙色の光が辺りを包み、紫の空に浮かんでいた星は数を減らしていた。
霞みかけた視界を、瞬きで誤魔化す。気を抜けば意識を持って行かれるのは確実だった。
拳銃による傷口は大きくはないから、一気に血を持って行かれることはない。けれど、じわじわと死は迫っている。
運が良ければ助かるかもしれない。後のことは、ただ天運に任せるしかない。
「加藤、アレ!」
五分ほど歩いたところに、木舟があった。手漕ぎのそれは、木を繰り抜いて整えただけだが、それなりの大きさがあり頑丈だ。食料確保のために海に釣りに出かけていた連中が、使っていたものである。
近付いて、状態を確認する。問題なさそうだ。少なくとも、三時間の航海は無事に終えてくれそうである。
「吉野、先に乗って、麻袋を受け取ってくれ。」
「分かった。」
吉野はその場に麻袋を置いて、先に乗り込む。舟が転覆しないように慎重に均衡を保ちながら、安定したところで加藤を見た。
「よし、それじゃあ、渡して。」
「気を付けろよ。」
震えそうになる手を耐えて、加藤は吉野に一つ麻袋を渡した。吉野はずっしりとした重みを、慎重に受け取る。
木舟にそれを置き、再び揺れが落ち着いたところで、吉野はまたこちらを見た。
二つ目の麻袋を渡す。一瞬腹部に触れそうになって、慌てて離す。
「加藤?」
「あ、すまん。手首が変に捻じれて。今、渡すから。」
怪訝な表情を浮かべた吉野に、慌てて言い訳をする。どうやら深く疑問を持たなかったようで、吉野はそのまま受け取った。
味方の負傷には気が付く方だった彼が、加藤の状態に気付く様子はない。気が逸っているのか、それともやはり心の内では動揺が続いているのか。いずれにせよ、加藤にとっては好都合だった。
澄んだ空気に、穏やかな海。争いなど嘘だったかのような、静寂。
見納めるように、加藤と吉野は島を眺めた。
木々は紅葉のように色づいて、綺麗だ。まるで見送りの言葉でも囁くように、風に吹かれた木の葉が揺れる。
「……行こうか。」
「ああ、そうだな。」
加藤が頷いて、木舟に乗り込もうとした、その時。
遠くから、おーい、という声が聞こえた。加藤と吉野は海を見る。




