6
坂を下りきれば、海が見える。木舟のある場所までは、十分もすれば着くだろう。
東の空はうっすらと白ばみ、辺りがぼんやりと見え始めていた。
濃い潮の香りが運ばれてくる。風は穏やかで、出航するのには問題が無さそうだ。
島の海辺は浜のようになだらかではなく、海と陸の間に段差がある形状をしていた。それが自然の港を形成しており、舟を浮かべれば簡単に物資を昇降できたから、便利だった。
おまけに周辺は岩も多く、大型の船では座礁の危険もある。この島が物資保管のために利用されたのも、上陸しづらく物資を昇降しやすいゆえだったのだろう。
地面が岩肌で、足を取られにくいのも良かった。体力が万全とは言い切れないなかで砂浜を歩くなど、地味に気持ちが削がれたに違いない。
二人は木舟があるという港に向かって歩き出した。
――と、その時。
「生きてたのかぁぁぁぁぁあ!」
草木が揺れたかと思うと、大きな叫び声とともに銃声が響いた。腕に衝撃を感じて咄嗟に抑えながら、声の方を見る。
誰かが銃を構えている。目を凝らせば、薄暗さの中に鬼の形相が浮かび上がった。
顔はやつれ、泣き暮れたと分かるほどに腫れている。
「長倉、撃ったか!」
「貴様ら、何故生きている! あまつさえ、その舟でこの場を去ろうというのか! それでも帝國陸軍に属する者か!」
吉野が激昂し叫ぶと、長倉も同じように怒鳴り声を上げた。
長倉との距離はおよそ十メートル。反撃できない距離ではない。
吉野は小銃を長倉に向けている。
「落ち着け、長倉。俺たちは少佐の命で動いている。見捨てようとしてるわけじゃない。」
弾が掠った腕を抑えながら、長倉に言う。だが、長倉は聞く耳を持つつもりは無いようだった。
「やかましい、何故生きている! みんな、死んだ! 貴様らとて誇りがあるならば、死を選べ!」
「俺達は軍属として誇りを持っているからこそ、ここにいる! 君こそ、何故ここに居るんだ!」
温厚な吉野が叫んでいる。長倉につられているのだろう。
加藤は二人の遣り取りに耳を傾けながら、何か手は打てないかと周囲を見回す。だが、彼を止める手段は見つからない。
長倉と吉野の睨み合いは、長倉が銃を下げたことで終わりと告げた。彼はがくりと膝をつき、涙を流しながら項垂れる。
「て、手にした手榴弾が、不発だったんだ……。俺だけ取り残された。俺だけ、俺だけ!」
酷い苛立ちを隠すことなく、呻くような叫び声を上げた。形振り構わず、感情のままに。その姿は、昨日までの彼とは似ても似つかない。
慟哭は、島を覆いつくすように響き渡る。
「長倉……。」
加藤はその姿に胸を締め付けられて、ごくりと唾を飲み込む。そして長倉に近寄ると、慰めるようにそっと肩に手を添えた。
しかし、長倉はそれを払いのける。
「触るな! 貴様には分からんだろう、俺の、俺の気持ちなんて! 最期の友の泣き声も、飛び散る肉片も、頬に付いた内臓も、……何も知らんだろう!」
長倉の言葉に、加藤は何も言えずに、ただ黙るしかない。
そうだ、知らない。その場に居なかったし、見ないようにしてきた。死に触れて、心が揺らぐことが怖かったからだ。
自分たちには使命がある。加藤はそれを強く意識していた。だからこそ、仲間の死に背を向けて来たのだ。
長倉が、光を失った視線を麻袋に視線を向ける。そして、鼻で笑った。
「それは、遺書か。ははは、そうだろうな。少佐は、貴様らに託すと言っていた。加藤、吉野。お前らが何で選ばれたか分かるか?」
「……いや。」
吉野は、航海の知恵を竹畑少佐から教えられている。だから選ばれたのだと思った。そして、吉野と一緒にするならば、加藤は適任だった。これは、加藤が予想した内容だ。
だが、それ以外に理由があるのならば。航海の術は他の者にも教えていたかもしれないし、吉野の付き添いも、加藤である必要は無かったかもしれない。全ては加藤の願望だったのだろうか。
加藤は少佐の真意を知るために、長倉の言葉を待つ。長倉は、何も知らない加藤を馬鹿にするように笑ってから、続けた。
「一番若いからさ。」
長倉の一言に、加藤が眉に皺を寄せる。
「確かに俺も吉野も、隊じゃ一番若かったが……でも、なんで。」
「竹畑少佐からすれば、貴様も吉野も、自分の子同然だ。他の連中からしても、可愛い弟みたいなもんだった。だから、貴様らに託したいと思ったのさ。」
吉野が、そんな、と小さく呟いた。
たしかに、年齢も立場も超えて、仲間として過ごしていた。弟のように接されて、兄のように慕っていた。
でもまさか、それが理由で、置いて行かれたのか。自分たちが数年早く生まれていれば、一緒に逝けたのか。
目の前が暗くなっていく感覚に歯を食いしばる。
目を見開いて固まる加藤と吉野を見て、長倉は高らかに笑い上げる。
「ははは! まさか、何か大きな理由があるとでも思ったか。まさか、あるわけないだろ。一年以上経っても二等兵止まりの貴様らに!」
「黙れ! 少佐は考えの深い人だった、もっと別の理由があるはずだ!」
「吉野、貴様は本当におめでたい奴だ! 殺したくない理由なんてのは、そんな大仰なもんじゃないのさ!」
「少佐は私情で判断をする人じゃない、知っているだろう!」
「どうだかなぁ? 人間、死を前にしたら変わるもんだ。死ぬときくらい自分の気持ちに正直になっても、誰にも責められないだろ!」
「……長倉、お前も、変わったな」
狂ったように笑いながら言い放つ長倉に、加藤が静かに言った。
長倉は、こんな風に他人を嘲る人では無かった。兄貴肌で、面倒見が良くて。それが今は、どこにも面影が無い。
長倉はぴたりと笑うのをやめ、虚ろな目で加藤を見る。そして、ゆっくりと自分の手に持っている拳銃に視線を向け、そのまま銃口を頭へ押し付けた。
「長倉!」
加藤はほとんど無意識に近付き、咄嗟に長倉の腕を掴んだ。銃口は特に抵抗もなく、長倉の頭から外れる。
加藤が腕をそっと離すと、だらりと地面へ落ちる。長倉は、再び項垂れて床をじっと見ていた。
「……死ねないんだ。」
ひび割れた唇が、ゆっくり動く。顔中に刻まれた傷から滲む血が、その無機質な瞳を際立てていた。
「手榴弾が不発だったから、最初はそれを地面に打ち付けた。でも、爆発しなかった。それならと思って、先生が忘れて行ってた銃を。」
「銃が無かったのは、お前のせいだったのか。」
弾はあるのに銃が無いと、吉野が言っていた。長倉が奪った後だったから、残っていなかったのだ。
「頭を撃とうと思って、引鉄を引いた。でも、弾が入ってなかった。」
「先生は、人を撃ちたくないと言っていたから……。」
吉野が呟く。彼の言う通り、小柳先生の銃に弾が入っていなかった。人を殺さないために。それは周知の事実で長倉も知っていたはずだが、おそらく、すでに正気では無かったのだろう。
「……それから、弾を補充するために、貴様らのいた洞窟へ行った。他に、ありそうな場所は無かったからな。」
その判断は正しかったはずだ。加藤たちは勢いのまま外に出ていたので、最低限の物資しか持っておらず、いくつかの弾もそこに置いたままになっていたのだ。
「弾を装填して、今度こそと思った。……でも、出来なかった。」
自ら死ぬ。それは簡単ではない。どれほど大義名分があろうと、どれほど望んでいても、最期の一歩を踏み出すのには、覚悟がいる。
一夜を過ごして加藤も吉野も冷静さを取り戻しているように、長倉も同じだったのだろう。
熱に浮かされたまま死ねていたのなら、幸せだったかもしれない。けれど、それは出来なかった。一人孤独に死んでいくことは、皆で死ぬのとは、決定的に違う。たとえそれが、皆のもとに逝くことだとしても。
「ゆ、指が、動かないんだ。俺は軍人として誇り高く散るのだと、そう思うのに……。」
「……おかしなことじゃない。気持ちと体は、別だ。」
「はっ、知った風なことを言うな、加藤。貴様は少佐の命令が無ければ、すぐにでも逝っただろうが。」
「そんなことは……。」
「いいや、貴様はそういう奴だ。分かってないのか? 貴様の顔は、死に場所を求める亡者そのものだぞ。」
長倉が皮肉まじりに、口の端を片方上げる。その言葉に、加藤は無意識に頬を触る。
自分がどういう顔をしているかなど、考えても居なかった。
使命がある。だから死ねない。そう思っていた。でも、もし使命が無ければ。果たして、自決の道を進んでいたのだろうか。
加藤には、何も分からない。ただ、心のどこかで虚しさが咽び泣いているような気はした。
「吉野はどうだ。あいつこそ、躊躇いなく自決を選べる奴だ。そうだろ?」
長倉が小さな声で呟いて、吉野を見る。吉野には声が届いていなかったのか、訝しげにこちらを見ていた。
吉野はずっと不安定だった。尊敬する竹畑少佐や、気の良い仲間たちのもとへ逝きたいという思いを抑えていたのは、他でもない加藤だ。長倉の言う通り、気を抜けば自ら命を断つ危うさがあったから。
しかし、今は違う。彼は、使命を強く意識している。きっと一人になったとしても、きちんと目的を達成できるはずだ。
長倉は縋るように、加藤を見る。
「加藤、一緒に逝こう。帝國軍人として、誇り高く。死んでこそ花開くというものだ、そうだろ?」
「……少佐の頼みを、放棄するわけにはいかない。それに、吉野を一人にするわけにも……。」
「少佐は、己の責を全うするために自ら旅立たれた。命をもって償ったんだ。少佐が立派な最期を迎えられたのに、共に逝こうとは思わないのか? お前だって、少佐を家族のように思っていただろう。沢山の恩を受けたじゃないか。死ぬときは共にと誓い合ったじゃないか。反故にするのか?」
「少佐は、道連れにするような人じゃない。俺が誓いを守れなくても、叱ったりはしない人だ。」
「叱られないから見捨てるのか? 命を懸けた約束さえ、破るというのか。薄情な奴め。」
長倉が静かに罵る。その棘が、心に深く突き刺さった気がした。
薄情と言われようと、使命があるならば全うしなければならない。それこそが、竹畑少佐との誓いを果たすことに代わるからだ。そう信じて来た。
死ぬことなどいつでもできる。すべてを届け終えて、それからでも。
そう思いながらも、加藤は自分の心が揺らいでいるのを感じた。
噎せ返るような血の匂いは、凄惨な最期を物語っていた。だがそれでも彼らは、穏やかな気持ちだっただろう。死に場所を自らの手で見つけ、義に殉じ、仲間と共に死ぬ。それはきっと、多くの戦友にとって幸福なことだったに違いない。
自分だって、その仲間に入れて欲しかった。彼らと共に逝けたなら、どれほど幸せだっただろうか。
郷里に残してきた家族がいる。だがきっと、彼らならば殉じた息子を、兄を、誇らしく思ってくれるはずだ。自分の死は、決して無駄にはならない。誰もが幸せになれる道。そう信じられる。
「加藤! 竹畑少佐はそんな事望まないぞ!」
傍にやってきていた吉野が、加藤の肩をがしりと掴んだ。加藤はハッと、顔を上げる。
視線を向ければ、心配そうに瞳が揺れている。
「君が言ったんだよ。この遺書を届けるんだと。それが、あの人たちの生きた証になるって。」
吉野が宥めるような声で言った。だが、長倉がそれを制止する。
「黙れ、吉野! その使命とやらは、お前一人いれば事足りるだろ。大島まで三時間だ。一人で渡れない距離じゃないだろ。お前は海に出るのは初めてじゃない。少佐からも色々と聞いてるんだからなぁ。」
長倉は、加藤を見た。
「確かに吉野には、理由があっただろうな。海のことを知ってる人間が舟を出すのが安全だ。だがな、加藤。お前は吉野のおまけだ。」
「加藤はおまけじゃない。俺は加藤が居なければ、ここに居ない。」
「そうだな。だが、お前が一人で大島まで行けるなら、加藤の使命は終わってるんだよ。こいつの使命は、お前が死なないようにすることなんだから。」
「それは違う! 加藤のおかげで、俺達は少佐の意図が分かった。そしてこれからも、俺は加藤を頼りにしている。」
吉野が庇うように言う。だが、加藤には長倉の言葉がもっともらしく響いていた。
吉野のおまけ。彼が死なないようにすることが、もう一つの使命。
そう思っていたのは、他の誰でもない加藤自身だ。それでも良いと、使命を果たすのだと、ここまで来た。
けれど、加藤が一人で自分の足で立っているならば、もう使命を果たしたようなものなのではないか。何も最後まで見届けなくても、ここで長倉と共に皆のもとへ逝っても、大丈夫なのではないだろうか。
脳裏に、仲間たちの顔が浮かぶ。背中を預け、死ぬときは共にと酒を交わしたあの日々が流れる。
加藤は押し寄せてくる感情を耐えるように目を閉じて、一つ息を吐く。そして、長倉を見た。
「……長倉。俺は、まだ死ねない。」
誇り高く立派に散ることは、紛れもない誉れだ。尊敬する竹畑少佐が死をもって贖うというのならば、共に。その気持ちもある。
けれど、思い出してしまった。少佐の優しい声を。
「加藤はいつも冷静だから、安心して何でも任せられる。仲間が困っていたら、お前の冷静さで助けてやってくれ。特に吉野は、数分先には落ち込んでるような子だ。お前が傍に居てやれば、あの子も安心して任務を遂行できるだろう。ちゃんと任務をこなせるか、最後まで見てやってくれよ。」
「加藤、それは?」
「少佐が、いつも言っていたんだ。」
「まったく、あの人は……。俺のこと完全に子ども扱いだ。一応、俺の方が半年なんだけどなぁ。」
吉野が懐かしむように、眉を下げて笑った。目の端の雫が、水平線から漏れ出ている光にわずかに反射する。
「長倉。俺は、吉野がちゃんと少佐からの命を果たせるまで、見届けなきゃならないんだ。だから、死ねない。」
「はっ、お守り役は大変だな。」
長倉が吐き捨てるように言った。だが、加藤は気にしない。
確かに、お守りと言えるかもしれない。だが、それだけではなかった。吉野の心根の優しさに救われたことが何度もある。吉野は、人の不安に敏感な性格だった。だから、あまり感情が表に出ない加藤の気持ちを察して、先回りしてくれるようなこともあった。
要するに、相性が良かったのだ。少佐はそれを分かっていたから、自分と吉野を共に居させた。
分かっていた。そんなこと、分かっていた。傍から見れば吉野のおまけかもしれないが、少佐が意味もなく加藤を付けるわけがない。きっと彼なりに、加藤のことを案じていたのだ。簡単に共死を選ぼうとすることを分かっていただろうから。
少佐が、若いからという理由で自分や吉野を選んだのか、本当のところは分からない。他の理由があったのかもしれないし、長倉の言う通り、最後に自分の私情を挟んだのかもしれない。
だが、それでも。
「少佐が何故、俺と吉野を選んだのかは、関係ない。少佐が俺たちに託したなら、俺たちはそれに応えるだけだ。俺たちは帝國陸軍の兵だ。上官の命令は、絶対だからな。」
「そう、そうだよ、加藤。俺達は考えなくていいんだ。そうだよ。ただ目の前の任務を遂行すれば良いんだ。」
吉野が頷く。彼の表情が、安堵で明るくなった。加藤はその表情を見て、うじうじしていてごめんと謝らなければならないな、と内心で苦笑する。
だがその前に、長倉だ。彼はこの島に死地を求めている。とはいえ、本人が死ねないというのならば、放っておくわけにもいかない。
「長倉、お前が良ければ、一緒に島を出よう。人手は多いほうが良い。」
それが長倉にとって良いことかは分からないけれど、生き残ったことにも意味があるのかもしれない。共に少佐の遺志を継ぐことが、天から与えられた使命だったのかも。
そう思って声を掛けたが、長倉はキッと睨みつけて叫んだ。
「行かん! 俺はこの地で散ると決めた! 貴様らも道連れでな!」
長倉が、銃を構えた。銃口は吉野を捉えている。加藤は咄嗟に吉野の前に出ながら、腰に手を伸ばす。
ほとんど反射的に、引鉄を引いていた。
時間が緩やかに進む。
放たれた弾が、はっきりと見える気さえする。
だが、ほんの一瞬。
その刹那の躊躇いで、長倉もまた引鉄を引いていた。
パァンという、乾いた音が響き渡る。
ドサリと音を立てて頽れたのは、長倉の体だった。
「長倉!」
吉野が駆け寄る。加藤の放った銃弾は、長倉の胸に当たったようだった。
「は、はは……これで、やっと……。少佐、あんたの、ところに……。」
「長倉、話すな! 傷が!」
長倉が口から、ごぼりと血が溢れる。吉野が慌てて止めるが、彼は気にすることなく、何かを求めるように、天へと手を伸ばした。
「かあ、さ……俺、立派に……。ばんざ……」
腕から力が抜け、鈍い音を立てて地へ落ちる。か細い声は、もう聞こえない。
潮騒だけが、ただ響いていた。
東雲に差す白い光が、長倉を照らし出した。随分と、穏やかな顔をしている。
その顔を見た瞬間、加藤は銃を投げ捨てていた。




