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海にゆらぐ泡のごとく  作者: 北海 犬丸


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2

 雪崩(なだ)れるように司令部へ駆け込めば、視界が開け、見知った天幕が現れた。そして、二人はぴたりと足を止める。

「な、なんだよ、これ。」

「これは、一体何が……。」

 見つめる視線の先には、黒い煙を吐き出す焚き火があった。木や草がパチパチと音を立て、灰や紙片が空を舞っている。

 降ってくる切れ端から、作戦資料などを焼いたのだと分かった。

「竹畑少佐! おられますか! 返事をしてください!」

「宮下中尉! 長倉、塩崎!」

 只事ではない様子にあたりを見回しながら、上官や同期の名を呼ぶ。いずれもこの小さな島で、昨日まで背を預けていた仲間たちだった。満足に食事がとれなくなっても、常に分け合ってきた。竹畑少佐を初めとする面々は、ほんの下っ端の自分たちに対しても、分け隔てなく接してくれていた。

 心を預けられる仲間の名を呼べども、いずれも返事がない。ただ虚しく、空に響くだけである。

「加藤、これ!」

 机に向かっていた吉野が、声を上げた。彼を見れば、天幕に置かれたラヂオの傍らで、小さな紙を手に持っている。

 近づいて、加藤も横から覗き込む。

「これは……少佐の字だ。」

 加藤はその文字を追い、みるみる目を見張る。

 紙の端に、雫が落ちる。吉野の涙だった。

「日本が、負けた……。」

 加藤が、思わず言葉を漏らす。吉野は紙を持っていられないとばかりに机に置くと、その場でうずくまって顔を伏せた。

 紙には、この大日本帝國が戦争に負けたこと、自分は多くの兵を死なせてしまったこと、その罪は命をもって(つぐな)うこと、そして、未来の日本がこの敗北に打ち勝ち華々しく繁栄することを望む旨が記されていた。

「天皇陛下から直々のお言葉だって……? 騙されているんだ……。」

 そう言いたくなる吉野の気持ちは分かる。陛下のお声など聴いたことが無い。ましてや、ラヂオで流れるなど、信じられるはずもない。

 しかし、それが嘘ではないと思えてしまう理由も、十分にある。

「吉野、これは遺書だ。間違いなく。聡明な少佐が騙されて自決なんて、するはずがない。」

「でも! 君は信じられるのか? 負けるなんて! 全員死ぬまで戦うんじゃなかったのかよ!」

「吉野、落ち着け!」

 加藤が声を荒げれば、吉野は一瞬怯んで言葉を止めた。

 吉野のすすり泣く声が、風すらも止んだこの地を包む。潮騒(しおさい)が遠くから聞こえてくる。

 加藤は何かに縋るように、周囲を見渡した。しかし目に入るのは、飛ばないようにまとめて置かれた何枚もの紙くらいだ。

 加藤は重い足取りで近付き、その紙束を力なく拾い上げる。目を通せば、いずれも少佐と共に自決することや、親への不幸を謝る内容などが書かれていた。そのどれもが、すでにこの世を旅立った者たちの声だった。

 こんなもの、今の加藤には何の役にも立たない。

 さらに辺りを見回して、ふと違和感を覚え、きょろきょろと忙しなく視線を動かす。

 武器が全くない。司令部はいわば本丸だ。万一に備えて、それなりの武器が置かれていたはずだった。銃も手榴弾も無いなど、明らかにおかしい。

 そう考えて、はたと気が付く。

「そうか、さっきからの爆発音は……。だから、あんな轟音が。」

 一発では、遠くへ届くほどの音にはならない。けれど、大量に破裂したのならばその勢いは地をも(とどろ)かす。つまりは、そういう事だ。

 加藤は、手に持っている紙の書き手の行方を察して、酷く暴れ出したい衝動に駆られた。吉野の泣き声が聞こえなければ、暴れ出していただろう。

 吉野が俯いたまま、悔しそうに言葉を漏らした。

「俺たちはあの小さな洞窟に居たから、気付けなかったんだ。一緒に靖国で会うのだと約束したのに、少佐も、皆も、連れていってはくれなかった……。」

 深い悲しみの色が滲む吉野の声を聞きながら、たった数時間前まで確かにここに居た仲間たちを思い出す。それは色褪せて、まるで遠い昔の出来事のように感じた。

 加藤は丸くなった吉野の後姿に、頭から離れない疑問を口にする。

「吉野。何故竹畑少佐は昨日になっていきなり、俺たちをあの洞窟へやったんだろうか。」

 今までの配置場所は、山裏の小高い丘だった。それが、昨日突然の配置換え。しかも二等兵が二人、上官の目も無い場所へ。

 海の監視のために仕方ないと、その言葉を鵜呑みにしていたけれど、もしも本当は違う意図があったのだとしたら。

 加藤の問いに、吉野は考えたくもないとでも言うように、弱々しく答える。

「知らないよ、そんなの。聞きたくてももう、少佐は……。」

「何か手がかりがあるはずなんだ。少佐は、意味もなくそんなことをする人じゃない。それに、少佐は俺たちがあの洞窟に居ることを知っていた。俺たちにも終戦のことを知らせに来てもおかしくないのに、誰も来なかった。」

 おかしな点は他にもある。手榴弾は自決に使ったとしても、銃弾どころか銃本体まで無いのは、わざわざ捨てに行ったことに他ならない。それも、加藤や吉野に気付かれないように。

「……少佐は、自決に人を巻き込むような人じゃなかった。」

 吉野が、疲れ切った声で言った。加藤が彼を見れば、彼の瞳が不安げに揺れている。何を信じればいいのか、竹畑少佐にはどんな思いがあったのか。何を考えれば良いのかさえ、迷っているのかもしれない。

 加藤だって、その答えを知りたかった。

 加藤は何か手がかりは無いかと紙束に目を通し、ふと手を止める。遺書とは明らかに違う紙が、何枚かあったのだ。

 いくつもの点が書かれているものや、この島と近くの大きな島の経路を書き綴ったものがある。初めは、この点の正体がわからなかった。しかしそれらが星だと分かると、唐突に理解する。

「吉野、これは少佐からの伝言だ。」

「え?」

「少佐は俺たちに、近くの大きな島へ向かうように言ってるんだと思う。わざわざ、どの星を目印にすれば良いかを書いてくれている。しかも、おおよそかかる時間まで。」

「俺達が生きて、その島に向かうように……?」

「遺書がこれだけまとめてあるのも、『誰か』が運んでくれると思ったからとしか思えない。たぶん、俺たちに持たせるためだったんだろう。」

 誰の手にも届かない遺書を、書かせるだろうか。誰かが読むと信じるからこそ、遺書を書くのではないだろうか。そして、誰かが読むためには、誰かが届けなければならないのだ。

 少佐は加藤たちに、その役割を託したかったに違いなかった。

「でも、俺達は昨日あの洞窟に行けって言われたんだ。遺書は今日のものなんだろ? なら、それは違うんじゃ……。」

「おそらく、少佐は昨日の時点で知っていたんだ。」

 知っていたから、二人を洞窟へやったのだ。自決を選ばせないために。手榴弾も武器もない理由など、それ以外に考えられなかった。

「なら、なんでそう昨日言ってくれなかったんだよ!」

「昨日話を聞いていたら、俺たちはどうしてた? 一緒に死のうとした、違うか!」

 加藤も吉野も、たかが一兵卒とはいえ、帝國陸軍の一人としての誇りがある。

 生きて帰らぬつもりで戦場に来た。のうのうと帰ることなどできないし、帰るつもりも毛頭なかった。

 ――こうして、逝きそびれてしまった空虚感を抱えていなければ。

 吉野は、俯いて黙り込む。彼もまた、加藤と同じ気持ちなのだろう。

 たとえ死するとも少しでも役に立とうと、この地に足を踏み入れた。それなのに、己の信じた上官は生きて帰れという。共に死ぬことは、許してもらえなかったのだ。

 いや、信頼したからこそかもしれない。けれど加藤たちにとってそれは、生き方を否定されたようなものだった。

 日が陰る。雲の影は、二人を静かに飲み込んでいく。見上げた空に、雨の気配はない。

「行こう、吉野。」

 加藤は、項垂(うなだ)れる吉野に声を掛ける。

「少佐が俺たちに、生きて遺書を届けろというなら。それがあの人の遺志だと言うなら……それを遂行するのもまた、部下の務めだ。そうだろ?」

 吉野は、俯いたまま動かない。

 加藤はただじっと、彼が動くのを待った。

 遠くで、海鳥の鳴く声が聞こえる。

 風が、強く、弱く、木の葉を揺らす。

 木々のざわめきが止んだ頃、吉野がゆっくりと顔を上げた。虚ろな瞳が、陽光に照らされる。

「俺たちの、務め……。」

「そうだ、吉野。遺書を家族のもとに届けてやろう。俺たちにしか出来ないことだ。少佐の書き付けによれば、海岸に木舟がある。それを使えば良いみたいだ。」

 吉野は少し目を伏せてから、両の手でパシンと頬を叩いた。

「……なら、皆の持ち物も持っていこうよ。手紙だけだと、味気ないだろ。」

「そうだな。そのほうが良い。」

 加藤は頷いて、手近な麻袋を一つ取る。

 骨を持って帰ることは出来ない。ならばせめて、生きた証を一つでも多く届けたい。それがどれほどの慰めになるかは、分からないけれど。

「とりあえず、近くの大島の連中と合流すれば良いのかな。もし、そこでも誰も居なかったら……。」

「行ってみないと分からんな。ただ、少なくともここに居ても、何もしようがない。行ってみるだけ行ってみよう。」

 加藤がそう言うと、吉野は顎に手を当てて、少佐が書いた書き付けを眺める。

「大島は、木舟で三時間くらいか。星図は念のため持っていくけど、夜の航海は危ないね。行くなら、明るい方がいいな。」

「潜伏場所を巡っていたら、夕方になりそうだな……。」

「そうだね。なら、行くのは明け方だ。そのくらいなら、海も凪いでいるはず。」

「吉野、詳しいんだな。」

「……少佐に、教えてもらったんだ。」

「……そうか。」

 加藤は、竹畑少佐の顔を思い浮かべた。

 彫りの深い、快活に笑う男だった。沖縄で育ち、東京の陸軍士官学校で学んだのだという。少佐という高位でありながら、海の知識を買われて、周辺の島の物資保管庫とも言えるこの島を守る小隊に配属されたのだそうだ。

 少佐が吉野へ遺書を託したのは、海の知識を伝えていたからかもしれない。

 そう考えて、加藤はふと、自分が選ばれた理由が分かった気がした。

 吉野が手紙を運ぶなら、一人では駄目だ。彼の性格なら、その場で自決する可能性も高かった。では誰を添えるか。選ぶなら、間違いなく自分だった。吉野とはいつも一緒に行動していたし、何より、想定外のことにも動じにくい。

「よく見ておられる……。」

 加藤は独り言ちる。それは実に少佐らしい采配で、それがどこかおかしくて、口の端に笑みが零れた。

 加藤や吉野の性格を把握して行動を先読みするほどに、少佐は人をよく見ていたのだ。

 小隊は三十名ほどで、もともと仲間たちの距離が近かった。だが、それだけはない。少佐はここにいる間、一人一人に目を掛けていた。食事も減り、いつ戦闘が始まるとも分からない中で心が疲弊しても、彼が陰りを見せたことは無かった。

「吉野。竹畑少佐のは、これでどうだ。」

「煙草? ああ、いいね。少佐らしいや。」

 ツルで煙草の空箱と少佐の遺書を括る。煙草が手に入った頃は、よく仲間を一服に誘っていた。それが彼の交流手段だった。手に入らなくなっても、お守りのように胸に忍ばせていた。

「他の奴らのも、集めないとな。」

「うん。」

 加藤と吉野は、仲間の荷物が置かれた場所へ移動する。少佐の意向で、荷物は少し隠れた場所にいくつかにまとめて置かれていた。

 仲間の背嚢(はいのう)を漁りながら、彼らが過ごした日々を切り取っていく。それを見れば誰のものか、すぐに分かる物たちだ。

「宮下中尉は、これだね。」

 吉野が取り出したものを見て、加藤が頷く。

「懐中時計か? はは、違いない。あの人は、いつも時間を気にしてた。」

「そうそう。竹畑少佐が大雑把だったから、いつも注意していたな。」

「厳しい人だったけど……優しかったな。」

 眼鏡をかけた、生真面目な人だった。規律の乱れには厳しく、だが、分け隔てなく接してくれた。褒め上手でもあり、小隊の母親のようなものだった。

 田畑曹長、藤沢、塩崎……。麻袋が重くなっていく。もう、彼らはいないのだ。

「……こんなところか。次へ行こう。」

 遺書も荷物も、ここに全員分あるわけではない。おそらく各所で固まってはいるだろうが、移動も考えると、感傷に浸っている場合ではなかった。この島は、海辺をぐるりと一周しても一時間ほどで済むほどの広さしかないが、高低がそれなりにある。のんびりしている時間は無いのだ。日が暮れる前に回収しなければならない。

 加藤は麻袋を背負い、程近い池の方へと歩き出す。吉野もそれに続いた。


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