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ゆるやかに堕ちて行く意識は、いずれこの海に溶けて消えるだろう。
それでも良いと思えた。
やがて陽は昇ると、俺は知っているのだから。
水面に映る影は、沈みゆく俺を掴まえようともがいている。
けれど、その影に手を伸ばすことはない。
そしてゆっくりと目を閉じるのだ。
永遠に醒めぬ夢を見続けるために。
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「加藤! 起きて!」
「起きている。何が起こった!」
地の底から震えるような轟音が聞こえ、加藤は閉じかけていた目を開いた。反射的に拳銃を手に取り、外を伺っている吉野に声を掛ける。
吉野は視線を外に向けたまま首を横に振り、わからないと言った。
「音は山側だから、ここからじゃ何も……。」
吉野の言う通り、洞窟の入り口から見えるのは一面の海だけ。ここは海からの侵入者をいち早く発見するための場所で、山側は全く見えない。もっとも、入口が山側だったとしても、結局は深い森に視界が遮られて見えなかっただろう。
とにかく状況を見定めようと体勢を整えた時。
どぉん。
爆発音が、遠くでまた響いた。
「司令部の方角だな。敵襲か?」
「いや、そういう感じじゃない。敵襲なら、もっと多くの銃声があってもおかしくないと思う。」
加藤の疑問を、吉野が否定する。加藤はその言葉に、確かにと頷く。
争いになっているならば、銃声も爆発音も、人の声もするはずだ。この小さな島はまだ戦場を知らないが、それでも今が戦闘状態でないことは容易に想像が付く。
「とにかく、外に出てみよう。ここじゃ状況が分からん。」
「う、うん、そうだね。」
吉野に声を掛け一足先に外に出ると、空気を裂くような鋭い音が、空を渡って耳を叩いた。音はやはり山の方だが、先程より距離が近い。おそらく、島の水資源として使っていた池の辺りだろう。
「この匂い……。」
「……急いだほうが良さそうだな。」
遅れて出てきた吉野が、顔を顰める。風が、硝煙と焼けた鉄の匂いを運んできたのだ。
状況が芳しくないことは明白だった。
「池の方か。行ってみよう。」
吉野が言ったので、加藤は首を横に振る。
「いや、司令部に行こう。池の方へ行くには、迂回する必要がある。司令部の方が近い。」
加藤の言葉に、吉野が頷いて歩き出した。加藤もその後ろを歩きながら、周囲を見回す。
木々の間から、煙が立ち上っているのが見える。それも一本ではなく、何本も。場所はいずれも、仲間たちが潜伏していた場所だ。
やけに気味が悪い。
「まるで、俺たちがどこにいるか分かっているみたいだな。」
「どういう意味?」
「考えてもみろ。襲撃を受けたなら、応戦しているはずだ。それなのに、争っている様子はない。それに、あの煙。的確に潜伏場所を狙ったなら、一方的に……。」
応戦する間もなかったのなら、この異様な静けさにも納得がいく。そして、漂う血の匂いの理由も。
吉野が、ぴたりと立ち止まった。そして睨むように、加藤を振り返る。
小銃を握る手は固く結ばれ、感情を抑えるように震えている。カタカタと鳴る金属音が、いやにはっきりと聞こえた。
「吉野?」
「加藤、君は、まさか皆がやられたと、そう言いたいんじゃないよね……? 竹畑少佐や、後藤中尉や……他の仲間たちが、簡単にやられたと。」
「……分からない。だが、何も音がないのは不自然だ。他に理由が思いつくか?」
加藤はゆるく首を振って、探るような目で彼を見る。吉野は震える声で、まるで自分に言い聞かせるように言った。
「た、たとえば、手榴弾の訓練でもしたのかもしれない。」
その言葉が真実ではないことなど、彼自身気が付いているだろう。
この島は、近隣の島に駐屯している本隊へ、物資を運ぶための中継地だ。この島での戦闘は想定されておらず、練習など必要ない。仮に想定されていたとしても、貴重な物資を練習などのために使うはずがない。海に囲まれた島々では、簡単に物資は手に入らないのだ。
加藤が何も語らずとも、吉野も十分すぎるほど分かっているはずだった。
吉野は黙っている加藤を見て、がくりと膝を落とした。
「なら、もう皆は……。」
「ともかく、状況を見よう。ここで立ち止まっていても何も進まんぞ」
「加藤はどうしてそんなに冷静なんだよ! 仲間が死んだかもしれないんだぞ!」
落ち着いた様子の加藤に、吉野が責めるように叫んだ。その言葉に、どう答えたものか逡巡する。
何も感じていない訳ではない。ただこの非常事態が、いやに頭を冷静にさせているのだ。まるで心と頭が切り離されてしまったかのように、心がどこかに置き去りになっているのである。
その一方で、心のどこかで彼らの生存を期待している自分もいた。まだ彼らの死を目にしたわけではないのだから、練習で使ったわけではないにしろ、何か理由があっただけなのかもしれない。司令部に向かえば、驚かせたことを詫びてくれるかも。
自分の中でも整理できていない感情を、上手く説明できるはずもなかった。
「吉野、司令部へ行こう。」
加藤が答えず先を促せば、吉野は悔しそうに地面を拳で殴りつけてから、立ち上がる。
そして背を向けると、吐き捨てるように呟いた。
「君、冷たい奴だったんだな。」
吉野の肩は震え、握られた拳は固いままだった。その背に何も言えず、加藤はただ黙って後に続くことしかできない。
木々のざわめきが、静まり返った島を包み込む。乾いた風が、少し汗ばんだ肌を冷やしていく。
この島は南洋にあれど、森の深さのおかげか随分と過ごしやすかった。なんとも幸運なことかと、上陸した頃は喜んだものだ。気を張り続ける戦場でこの居心地の良さは、小さな心の安らぎであった。
もっとも戦況が長引くにつれ、実りも無ければ雨も少ない現実を痛感したけれど。
「吉野、もしかしたら、敵がいるかもしれない。慎重に進むんだ。」
「分かっている!」
加藤の言葉に、吉野は背中越しに声を荒げた。そして、アッと小さく声を漏らす。
「……ごめん。」
「いや、大丈夫だ。」
苛立った声と、小さな謝罪。神経を擦り減らしているのが、よく分かる。
自分もまたいつも通りではないことを、加藤は自覚していた。
心音は大きく、脈も速い。わずかな音さえ拾えそうなほど、耳も研ぎ澄まされている。銃を握る手には、汗が滲んでいる。洞窟での待機を踏まえて譲り渡された拳銃は、手に馴染まない。
がさりと音がするたびに、そちらへ銃を向ける。そして何もおらず、ほっと息を吐く。そんなことが、何回も繰り返された。
「こんなことになるなら、傍を離れなければ……。」
司令部まで半分ほどのところで、吉野が弱々しく呟いた。
「昨日知っていれば、竹畑少佐はそもそも俺たちをあの洞窟へはやらなかっただろ。」
「それは、そうだけど……。」
そもそも、加藤と吉野は司令部にほど近い場所で潜伏していた。それを昨日になって、竹畑少佐が配置換えしたのだ。あの洞窟で見張りをしてほしいと。
島へは船で上陸するしかない。となれば、たしかに海を一望できるあの洞窟は絶好の場所である。しかし同時に、海から丸見えでもあった。おまけに洞窟は奥が狭く、外の音も聞こえづらく、逃げ道は入口しかない。上手く逃げられなければ、真っ先に攻撃される。そのため、普段は見張りを置いていなかった。
加藤も吉野もこの第五小隊で最も若く、階級も低かった。おまけに加藤には戦闘経験もない。戦況の悪化に伴い誰かを配属しなければならないとなったとき、軍にとって最も痛手の少ない二人に任せたのは、致し方ないことだっただろう。
だからこそ納得し、あの場所で待機していたのだ。
だが、と加藤は苦い気持ちに眉を顰める。
もっと司令部の近くに居られるように、言ってみれば良かった。少佐は話の分かる人であるから、下っ端の自分の意見であっても、無碍にはしなかったはずだ。
加藤が昨日のやり取りを思い出して臍を噛んでいると、山の裏側から、いくらか人の声が聞こえた。
万歳、万歳。
大きく叫ぶような声、そして、ごぉんという大きな爆発音。
山の峰の奥に見える煙が、彼らの末路を匂わせる。そこはおそらく、島崎少尉と小池兵長、そして数名の兵が居た司令支部だ。
「い、今のって……。」
吉野が、震える声でこちらを見る。加藤は、背中に冷や汗が伝うのを感じる。
嫌な予感がした。
「吉野、走るぞ!」
「うん!」
司令部へ向かえば、状況が分かるはず。そう信じて、二人は足早に前へ進む。
司令部まで、走れば数分だ。上り坂は急だが、足は軽やかだった。疲れなど忘れたように、重い荷物を抱えていることなど感じさせないほどに。
万歳。その言葉がいつ使われるかを知らない者は、おそらくいないだろう。戦場に置かれている者が、その言葉を使うときは。




