第八回 歩道橋
「本当にこれ大丈夫なのか」という錆びついて歩くたびにギシギシ揺れる歩道橋の階段を登り、道路を見下ろすと、そこには市役所や市の施設が並んでいる。細かくは覚えてはいないが、何か色々あるのだ。そこに、車が出たり入ったりしている。私は、心の中で、ブルックナーの第三交響曲を流していたのであった。神々しさということを表現したのだろうと言えるあの荘厳な重々しさが、たまに聞くとズッシリと心に残ってゆくのだ。
それは決して、苦しい負担ではなくて、丁度、今この歩道橋に立っているように、心地よいものであって、朝日を浴びて私は、無限に湧き上がるような幸福感に打たれ始めている。友人の武彦にはわからないだろう。この孤独なる喜びは、心の内側から湧き起こる快感は。ブルックナーの伝記を読むと、まるで彼は私に生きる道を指し示してくれるかのようである。徹底的に孤独でいろ。と。田舎の目立たないピアノ教師でいいじゃないかと。
いや、ブルックナーもそれは有名になろうと懸命に努力はしたけど。でも、彼の根底というのは、神聖なる孤独であったろう。日本の仏教ともこれまた少し違うのだ。西洋の孤独というものは、神と一対一で向かい合った孤独である。我々の神は、神仏である。何体もいるか、あるいは、虚空の中に何もない状態だったりもする。
勿論、単なる高校生の私がその域まで達せられるかというと、無理な話であろう。そして、そこまで目指しているものでもない。だが、その話とは別に人生というのは、とてつもなく孤独である。死という出口が孤独に出来上がっているからだ。ブラックホールのように虚空に口を開けている。
どんなに抵抗しても吸い込まれて死んでゆくのだ。デートでも救えるものではない。当たり前である。今日会う彼女に死について語っても、何の反応もないだろう。それどころか、馬鹿じゃないのと、陰口を叩かれるかも知れない。
しかし、女の首根っこを捕まえて強烈に死を叫びたい。彼女たちはどうしてあんなにのうのうと生きているのであろうか。いつか死ぬというのに、呑気すぎるではないか。デートなんて、そんなことをやっている場合か。いや、しかし、これは茶の湯のようなものなのかもしれない。戦国武将も、茶の湯に勤しんでいたではないか。彼らも心の中では疑問に思いつつも、習慣だからと続けていたのである。そんなものはこの世の中にいくらでもある。




