第五回 玄関
外に出るためには玄関に行かないといけない。靴もそこにあるし無理やり窓から出ても良いがそうする意味もない。そして、何でこんな当たり前のことを考えているのかもわからない。靴を履いている時に、庸子の足を思い出したのかも知れない。全てを捨ててあのメロン乳というか、スイカ乳に頭を埋めたい。「ママ。ママ」と言いながら。という願望があったが、そうしたら庸子は舌舐めずりをして、私の若い生気を吸い取ってしまうだろう。全く大した魔女である。
日本の伝統でいえば、狂女とすべきところであろうか。ふと、国語の教師の四角四面な顔が浮かんでくる。「小説というのは、ふた通りしかない。最後に盛り上がるものと、なだらかに途中で盛り上げて最後にゆったり静かに終わるものだ。そして、日本の小説では後者しか上手くいった小説はないのだ。少なくとも純文学はな!アッハハハ」と何故か笑っていた。何か理由があったがそれは忘れている。この場合と何の関係があるのだろう。つまり、私は庸子の掌の中を踊っているだけ?全ては決まっている?運命?ジャジャジャジャーン。「芥川龍之介君と、谷崎潤一郎君が、あまりにもストーリーテリングがわかりやすいので、文句を言われて論争になったのである。結局二人は山なしオチなしの作品を書かざるを得なかった。ことほどさように、日本の小説には、19世紀、西洋の小説のような起伏がないのである。辛うじて挑戦したのは、島崎藤村君の「破戒」であろうか。あれも、オチがあるということが、多くの人々を冷めさせたものなのである。当時の日本人の読書人たちは相当冷めていたのだ。衒学的な雰囲気が蔓延していたとも取れるだろう」という何故か得意げな顔つきをした先生の言葉が記憶の向こうでぼやけてゆく。あだ名は「ペヤングソース焼きそば」であった。顔が四角いから。
さて、そんな話はいいとして、靴の入った棚の端の方には、まだ亡くなった母の女ものの緑色のサンダルが残っているのであった。しかし、それは感傷的な意味で残したのではなく、何かの役に立つかも知れないということで、そこにあるのだ。たまに、何をつっかけて外に出ればいいのかわからない時があるから。それに、私も父も亡くなった母については一切その話をしなくなっていた。そんな話をしてもしょうがないというよりも、もともとそういうような情愛が淡白にできているのかも知れない。ある意味で合理的なのかも知れないが。




