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実存的転生  作者: ウィリアム輝夫
数ヶ月後
36/37

第三十六回 昼休み 後


「予鈴だ」


 私はそれだけ言って立ち上がった。武彦の問いには答えなかった。答えられなかった、と言うほうが正しい。白い壁の前に立って、何かを読み上げている男。それが私だとして、なぜ会ったこともない女子が、それを夢に見るのか。


 階段を降りながら、武彦が言った。


「図書室、寄ってくか。五分ある」


「三輪さんに会えって言うのか」


「会えとは言ってない。寄ってくかって言っただけだ」


 武彦の耳は、まだ少し赤かった。


 図書室は、校舎の二階の端にあった。昼休みの終わりかけで、中には誰もいなかった。古い紙の匂いと、暖房の乾いた匂い。カウンターの奥で、眼鏡の女子が一人、文庫本を閉じるところだった。


 三輪さんは顔を上げて、武彦を見て、それから私を見た。


 その瞬間、彼女の手から文庫本が滑り落ちた。


「あ」


 三輪さんは本を拾わなかった。眼鏡の奥の目が、少しだけ大きくなっていた。驚いているというより、ずっと前に失くした物を、思いがけない場所で見つけたような顔だった。


「霧谷くん、だよね。一組の」


「そうだけど」


「ごめん。なんでもない」


 三輪さんはそう言って、ようやく本を拾った。表紙が見えた。カフカの日記だった。


 武彦が、わざとらしく咳払いをした。


「三輪。こいつが、前に話した、あの」


「うん。わかってる」


 三輪さんは、貸出カードの箱をなんとなく指で揃えながら、私のほうを見ずに言った。


「霧谷くんって、声、低いんだね」


「え」


「夢の中だと、もうちょっと遠くて、聞き取れないの。でも、たぶん同じ声」


 私は何も言えなかった。武彦も黙っていた。暖房の音だけが、ぶうんと鳴っていた。


「ねえ、霧谷くん」


 三輪さんは、ようやく顔を上げた。


「昨日の夜ね、壁の文字が、一行だけ消えてたの。真ん中あたりの、ちょうど読み上げてる途中のところ。あなた、途中で止まってた」


 私の背中を、冷たいものがゆっくりと降りていった。最近、壁の夢を見なくなった。それは、私が壁から離れたからだと思っていた。でも、もし、壁のほうが私を離れようとしているのだとしたら。


 本鈴が鳴った。


「やばい、行くぞ」


 武彦が私の腕を引いた。図書室を出るとき、振り返ると、三輪さんはまたカウンターの奥で本を開いていた。けれどページは、めくられていなかった。


 廊下を走りながら、武彦が息を切らして言った。


「どうだった」


「何が」


「三輪。どう思った」


 私は少し考えた。


「お前、いい人を好きになったな」


 武彦は答えなかった。でも、走りながら、少しだけ笑っていた。


 教室に滑り込むと、五時間目の先生はまだ来ていなかった。窓際の席に座ると、斜め前の沙耶香が振り返った。


「どこ行ってたの」


「屋上と、図書室」


「ふうん」


 沙耶香は、私の顔をしばらく見ていた。それから、短くなった髪をまた耳にかけて、小さな声で言った。


「霧谷くん、なんか、文字が一個足りない顔してる」


 先生が入ってきて、号令がかかった。私は立ち上がって、礼をした。頭を下げたまま、窓の外の空を思った。雲ひとつない空の、ずっと向こう。壁の、真ん中あたり。


 一行分の空白が、そこにある気がした。

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