↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
実存的転生  作者: ウィリアム輝夫
数ヶ月後
37/37

第三十七回 下校


 六時間目が終わると、武彦はすぐに鞄をつかんで私の席に来た。


「図書室、四時半に閉まるんだ」


「それが」


「三輪が、一緒に帰ろうって」


 武彦は窓の外を見ながら言った。言ったというより、窓に向かって報告したような言い方だった。


「よかったじゃないか。二人で帰れよ」


「お前も来いって」


「俺も」


「三輪が、お前とも話したいって」


 私はしばらく黙った。それから鞄を肩にかけた。斜め前の席で、沙耶香が教科書をしまう手を止めていた。


「私も行っていい?」


 沙耶香は、こちらを見ずにそう言った。


 四時半、図書室の前の廊下で三輪さんが待っていた。紺色のマフラーを首に二重に巻いて、鞄を両手で前に持っている。沙耶香を見ると、少しだけ目を見開いて、それから小さく会釈した。沙耶香も会釈を返した。二人とも何も言わなかったが、何かを確かめ合ったような間があった。


 四人で校門を出た。坂の下まで来ると、町はもう夕方の色になっていた。朝、光っていた銀杏並木が、今度は橙色に沈みかけている。


 武彦と三輪さんが前を歩き、私と沙耶香が少し後ろを歩いた。前の二人は、カフカの話をしていた。


「だから、フェリーツェへの手紙は、半分は自分に書いてたんだと思うの」


「本人もそう言ってた。いや、言ってたっていうか」


「わかってる。言ってたんだよね」


 三輪さんがそう言うと、武彦は嬉しそうに頭をかいた。降霊のことを、笑わずに「言ってた」と受け取ってくれる人がいる。それがどれだけありがたいことか、私には少しわかる気がした。


 沙耶香が、隣で小さく言った。


「あの子、見えてるね」


「三輪さんのことか」


「うん。私には、もうあんまり見えなくなってきてるのに」


 沙耶香は前を向いたまま歩いていた。夕日が、短くなった髪の先を赤く透かしていた。


「ハイポリアのこと?」


「お城の窓から見た海の色が、最近思い出せないの。前は目をつぶればすぐ見えたのに。髪を切ったら、少し軽くなるかと思ったんだけど」


 私は何か言おうとして、やめた。言葉にすると、それがもっと遠くへ行ってしまう気がした。


 駅前の交差点で、信号が赤になった。前の二人が立ち止まり、三輪さんが振り返った。


「霧谷くん。さっきのこと、怖がらせたならごめんね」


「いや」


「あのね、私、ずっと一人だと思ってたの。あの壁の夢を見てるのは、世界で私だけだって。だから、本当にいるんだってわかって、ちょっと嬉しかった」


 三輪さんは、マフラーに口元を埋めて笑った。


「途中で止まってても、いいと思う。また読み始めればいいんだから」


 信号が青になった。三輪さんと武彦は、反対側のホームの電車に乗るために、改札の向こうへ走っていった。走りながら、武彦が一度だけ振り返って、手を挙げた。私も手を挙げた。


 沙耶香とは、駅の階段の下で別れた。


「じゃあね、霧谷くん」


「また明日」


 沙耶香は少し笑って、手を振った。その笑い方は、今朝と同じで、やはりどこか遠い国の人のようだった。


 電車を降りて、家までの道をひとりで歩いた。日はもう落ちていた。家々の窓に、ひとつずつ灯りがともっていく。私は足の裏に意識を向けた。右、左、右、左。今度は、家に着くまで途切れなかった。


 玄関を開けると、台所の灯りがついていた。廊下の先から、包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。


「おかえりなさい」


 庸子さんの声だった。今朝の幻ではなく、本物の声だった。


「ただいま」


 靴を脱ごうとして、私は手を止めた。上がり框に、庸子さんの白いスリッパが揃えて置いてあった。あの頃と同じ、つま先をこちらに向けた揃え方だった。


 あの頃。


 私の頭の中で、何かが、ゆっくりと逆向きに読み上げられ始めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。