第三十七回 下校
六時間目が終わると、武彦はすぐに鞄をつかんで私の席に来た。
「図書室、四時半に閉まるんだ」
「それが」
「三輪が、一緒に帰ろうって」
武彦は窓の外を見ながら言った。言ったというより、窓に向かって報告したような言い方だった。
「よかったじゃないか。二人で帰れよ」
「お前も来いって」
「俺も」
「三輪が、お前とも話したいって」
私はしばらく黙った。それから鞄を肩にかけた。斜め前の席で、沙耶香が教科書をしまう手を止めていた。
「私も行っていい?」
沙耶香は、こちらを見ずにそう言った。
四時半、図書室の前の廊下で三輪さんが待っていた。紺色のマフラーを首に二重に巻いて、鞄を両手で前に持っている。沙耶香を見ると、少しだけ目を見開いて、それから小さく会釈した。沙耶香も会釈を返した。二人とも何も言わなかったが、何かを確かめ合ったような間があった。
四人で校門を出た。坂の下まで来ると、町はもう夕方の色になっていた。朝、光っていた銀杏並木が、今度は橙色に沈みかけている。
武彦と三輪さんが前を歩き、私と沙耶香が少し後ろを歩いた。前の二人は、カフカの話をしていた。
「だから、フェリーツェへの手紙は、半分は自分に書いてたんだと思うの」
「本人もそう言ってた。いや、言ってたっていうか」
「わかってる。言ってたんだよね」
三輪さんがそう言うと、武彦は嬉しそうに頭をかいた。降霊のことを、笑わずに「言ってた」と受け取ってくれる人がいる。それがどれだけありがたいことか、私には少しわかる気がした。
沙耶香が、隣で小さく言った。
「あの子、見えてるね」
「三輪さんのことか」
「うん。私には、もうあんまり見えなくなってきてるのに」
沙耶香は前を向いたまま歩いていた。夕日が、短くなった髪の先を赤く透かしていた。
「ハイポリアのこと?」
「お城の窓から見た海の色が、最近思い出せないの。前は目をつぶればすぐ見えたのに。髪を切ったら、少し軽くなるかと思ったんだけど」
私は何か言おうとして、やめた。言葉にすると、それがもっと遠くへ行ってしまう気がした。
駅前の交差点で、信号が赤になった。前の二人が立ち止まり、三輪さんが振り返った。
「霧谷くん。さっきのこと、怖がらせたならごめんね」
「いや」
「あのね、私、ずっと一人だと思ってたの。あの壁の夢を見てるのは、世界で私だけだって。だから、本当にいるんだってわかって、ちょっと嬉しかった」
三輪さんは、マフラーに口元を埋めて笑った。
「途中で止まってても、いいと思う。また読み始めればいいんだから」
信号が青になった。三輪さんと武彦は、反対側のホームの電車に乗るために、改札の向こうへ走っていった。走りながら、武彦が一度だけ振り返って、手を挙げた。私も手を挙げた。
沙耶香とは、駅の階段の下で別れた。
「じゃあね、霧谷くん」
「また明日」
沙耶香は少し笑って、手を振った。その笑い方は、今朝と同じで、やはりどこか遠い国の人のようだった。
電車を降りて、家までの道をひとりで歩いた。日はもう落ちていた。家々の窓に、ひとつずつ灯りがともっていく。私は足の裏に意識を向けた。右、左、右、左。今度は、家に着くまで途切れなかった。
玄関を開けると、台所の灯りがついていた。廊下の先から、包丁がまな板を叩く音が聞こえてくる。
「おかえりなさい」
庸子さんの声だった。今朝の幻ではなく、本物の声だった。
「ただいま」
靴を脱ごうとして、私は手を止めた。上がり框に、庸子さんの白いスリッパが揃えて置いてあった。あの頃と同じ、つま先をこちらに向けた揃え方だった。
あの頃。
私の頭の中で、何かが、ゆっくりと逆向きに読み上げられ始めた。




