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実存的転生  作者: ウィリアム輝夫
数ヶ月後
35/37

第三十五回 昼休み 中


「女って、誰だよ」


 私が聞くと、武彦はフェンスから背中を離して、また給水塔の陰に座り直した。カラスはまだフェンスの上にいて、焼きそばの最後の一本と格闘していた。


「図書委員の、三輪っているだろ。二組の」


「眼鏡の」


「眼鏡の」


 三輪さんの顔は、ぼんやりとしか浮かばなかった。図書室のカウンターの奥で、いつも本を読んでいる女子だ。本を借りるとき、貸出カードに判子を押してくれる。その判子の押し方が、やけに丁寧だった気がする。


「好きなのか」


「好きかどうかは、わからない」


 武彦は、パンの袋をくしゃくしゃに丸めて、また広げた。


「この前さ、図書室で『変身』を借りたんだよ。カフカが、自分の本がちゃんと置いてあるか見てこいってうるさくて。そしたら三輪が、貸出カードに判子押しながら、『カフカ、好きなの?』って聞いてきたんだ」


「それで」


「『好きっていうか、毎晩来るんだ』って答えた」


 私は、おにぎりを喉に詰まらせかけた。


「お前、それ言ったのか」


「言っちゃったんだよ。眠くて頭が回ってなかったんだ。そしたら三輪、笑うかと思ったら、笑わなかった。じっと俺の顔を見て、『わかる』って言ったんだ」


「わかる、って」


「わかる、って」


 風が吹いた。給水塔の影が、少しだけ短くなった気がした。


「それからさ、図書室に行くたびに少しずつ話すようになって。三輪はカフカの日記まで読んでるんだ。俺より詳しい。降りてきたカフカより詳しいかもしれない」


「本人より詳しいのか」


「本人、自分の書いたもの結構忘れてるからな」


 私は笑った。武彦も少し笑った。それから、困ったように頭をかいた。


「それで、カフカに相談したんだよ。どうすればいいかって」


「よりによって、カフカに」


「他にいなかったんだよ。そしたらあいつ、手紙を書けって言うんだ。毎日。一日に二通でも三通でも。で、婚約して、それから婚約を破棄しろって」


「最悪の助言だな」


「だろ。しかも二回破棄しろって言うんだ。一回目はまだ甘いって」


 私たちは、また腹を抱えて笑った。フェンスの上のカラスが、迷惑そうに羽をばたつかせた。


 笑い終わると、武彦は膝を抱えて、空を見上げた。


「でもさ、霧谷。笑い話じゃないこともあるんだ」


「なんだよ」


「三輪が、この前、変なことを言ったんだ」


 武彦は少し黙った。言葉を選んでいるというより、言っていいのかどうかを、誰かに確かめているような間だった。頭の中のブロートか、カフカか。


「三輪な、小さい頃からずっと、同じ夢を見るんだって」


 私は、おにぎりの袋を握ったまま、動けなくなった。


「白い壁の夢なんだって。ものすごく高くて、どこまでも続いてて、文字がびっしり書いてある。それで、その壁の前に、いつも男の人が一人立ってて、ずっと何か読み上げてるんだって」


 武彦は、私の顔をまっすぐに見た。


「なあ。それ、お前のことじゃないのか」


 昼休みの終わりを告げる予鈴が、校舎のスピーカーから遠く鳴り響いた。カラスが、フェンスから飛び立った。

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