第三十五回 昼休み 中
「女って、誰だよ」
私が聞くと、武彦はフェンスから背中を離して、また給水塔の陰に座り直した。カラスはまだフェンスの上にいて、焼きそばの最後の一本と格闘していた。
「図書委員の、三輪っているだろ。二組の」
「眼鏡の」
「眼鏡の」
三輪さんの顔は、ぼんやりとしか浮かばなかった。図書室のカウンターの奥で、いつも本を読んでいる女子だ。本を借りるとき、貸出カードに判子を押してくれる。その判子の押し方が、やけに丁寧だった気がする。
「好きなのか」
「好きかどうかは、わからない」
武彦は、パンの袋をくしゃくしゃに丸めて、また広げた。
「この前さ、図書室で『変身』を借りたんだよ。カフカが、自分の本がちゃんと置いてあるか見てこいってうるさくて。そしたら三輪が、貸出カードに判子押しながら、『カフカ、好きなの?』って聞いてきたんだ」
「それで」
「『好きっていうか、毎晩来るんだ』って答えた」
私は、おにぎりを喉に詰まらせかけた。
「お前、それ言ったのか」
「言っちゃったんだよ。眠くて頭が回ってなかったんだ。そしたら三輪、笑うかと思ったら、笑わなかった。じっと俺の顔を見て、『わかる』って言ったんだ」
「わかる、って」
「わかる、って」
風が吹いた。給水塔の影が、少しだけ短くなった気がした。
「それからさ、図書室に行くたびに少しずつ話すようになって。三輪はカフカの日記まで読んでるんだ。俺より詳しい。降りてきたカフカより詳しいかもしれない」
「本人より詳しいのか」
「本人、自分の書いたもの結構忘れてるからな」
私は笑った。武彦も少し笑った。それから、困ったように頭をかいた。
「それで、カフカに相談したんだよ。どうすればいいかって」
「よりによって、カフカに」
「他にいなかったんだよ。そしたらあいつ、手紙を書けって言うんだ。毎日。一日に二通でも三通でも。で、婚約して、それから婚約を破棄しろって」
「最悪の助言だな」
「だろ。しかも二回破棄しろって言うんだ。一回目はまだ甘いって」
私たちは、また腹を抱えて笑った。フェンスの上のカラスが、迷惑そうに羽をばたつかせた。
笑い終わると、武彦は膝を抱えて、空を見上げた。
「でもさ、霧谷。笑い話じゃないこともあるんだ」
「なんだよ」
「三輪が、この前、変なことを言ったんだ」
武彦は少し黙った。言葉を選んでいるというより、言っていいのかどうかを、誰かに確かめているような間だった。頭の中のブロートか、カフカか。
「三輪な、小さい頃からずっと、同じ夢を見るんだって」
私は、おにぎりの袋を握ったまま、動けなくなった。
「白い壁の夢なんだって。ものすごく高くて、どこまでも続いてて、文字がびっしり書いてある。それで、その壁の前に、いつも男の人が一人立ってて、ずっと何か読み上げてるんだって」
武彦は、私の顔をまっすぐに見た。
「なあ。それ、お前のことじゃないのか」
昼休みの終わりを告げる予鈴が、校舎のスピーカーから遠く鳴り響いた。カラスが、フェンスから飛び立った。




