第三十四回 昼休み 前
四時間目の終わりのチャイムが鳴ると、教室の空気がいっぺんにほどけた。机を寄せる音、購買へ走る足音、誰かの笑い声。私は鞄から、朝コンビニで買ったおにぎりを二つ取り出した。
武彦が椅子を引きずってきて、私の机の前で止まった。
「屋上、行かないか」
「寒いだろう」
「寒いほうが目が覚める」
教室を出るとき、沙耶香のほうを見た。彼女は女子たちの輪の中で、短くなった髪を耳にかけながら笑っていた。最近、彼女はあちら側にいることが多い。それが悪いことだとは思わない。思わないけれど、少しだけ胸のどこかが引っかかった。
屋上は風が強かった。私たちは給水塔の陰に並んで座った。コンクリートが尻に冷たい。武彦は焼きそばパンの袋を歯で破った。
「で、カフカは今朝も来たのか」
「来た。しかも今度はマックス・ブロートも一緒だ」
「二人も」
「俺の頭の中で喧嘩してるんだよ。カフカが『原稿を燃やしてくれ』って言うだろ。ブロートが『燃やすもんか』って言う。それを一時間目からずっと。数学の先生が何言ってたか、何ひとつ覚えてない」
私は笑った。おにぎりの海苔がうまく剥がれず、半分くらい袋の中に残った。
「燃やさなかったおかげで、俺たちはカフカを読めるんだけどな」
「それ、カフカ本人の前で言ってみろよ。すごい顔するぞ。なんていうか、虫みたいな顔」
「お前、それは失礼だろう」
「本人が言ってたんだ。俺は虫だって」
二人でしばらく笑った。笑いながら、空を見た。青い。雲がひとつ、ゆっくり東へ流れていく。
武彦が、パンを持った手を膝に下ろした。
「なあ、霧谷。お前の壁、最近どうだ」
「見なくなった。夢に出てこない」
「ふうん」
武彦は焼きそばを一本、指でつまんで口に入れた。
「見なくなったんじゃなくてさ、お前のほうが壁の内側に入っちゃったってことはないのか」
「どういう意味だよ」
「わかんない。今、ブロートがそう言えって言った」
風が吹いて、給水塔がかすかに鳴った。私は何か言い返そうとしたが、言葉が見つからなかった。宇宙の果てに立つ白い壁。そこに刻まれた文字を、私は読み上げている。もしその内側にいるのだとしたら、私はいま、何を読んでいるのだろう。
そのとき、黒い影が目の前を横切った。カラスだった。カラスは武彦の膝の上から焼きそばパンの残りを器用にさらって、フェンスの上に止まった。
「おい! それ、俺の!」
武彦が立ち上がって手を振り回す。カラスは首をかしげて、焼きそばを一本ずつ引っ張り出して食べ始めた。
「カフカかもしれないぞ」と私は言った。
「カフカはカラスじゃない。カフカはチェコ語でカラスって意味だけど、カラスじゃない」
「詳しいな」
「本人から聞いた」
私たちはまた笑った。腹の底から、子どもみたいに笑った。こんなに笑ったのはいつ以来だろう、と思った。
笑いが収まると、武彦はフェンスにもたれて、急に真面目な顔になった。
「霧谷。実はさ、ちょっと相談があるんだ」
「降霊のことか」
「違う」
武彦は靴の先でコンクリートをこすった。耳が少し赤い。寒さのせいだけではなさそうだった。
「女のことなんだ」
フェンスの上で、カラスが一声鳴いた。




