第三十三回 登校
パンを口に押し込んで、私は家を出た。玄関で靴を履いていると、居間から庸子さんの「いってらっしゃい」が聞こえたような気がした。振り返ると、彼女はテレビに顔を向けたままだった。幻だ。でも、それでいい、と私は思った。
十一月の朝は、思っていたより冷たい。駅までの道には銀杏並木があって、黄色い葉が歩道に貼りついている。私は歩きながら、足の裏に意識を向けてみた。右、左、右、左。地面が靴底を押し返してくる感じ。沙耶香に教わった歩く瞑想というやつだ。三十歩ほど続けたところで、自転車のベルに驚いて、全部どこかへ行ってしまった。
信号待ちの間、空を見上げた。雲ひとつない。あの夢に出てくる壁は、こういう空のずっと向こうにあるのだろうか。宇宙の果てに立っている、文字がびっしり刻まれた白い壁。最近はあまり夢に見なくなった。それが良いことなのか悪いことなのか、私にはまだわからない。
駅のホームで武彦を見つけた。ベンチに座って、首を前に垂らしている。
「おい、寝てるのか」
「起きてる。いや、半分寝てる」
武彦は顔を上げた。目の下に隈がある。
「昨日の夜、また誰か降りてきたのか」
「カフカだよ。あいつ、朝飯の話ばっかりするんだ。ゆで卵の殻がうまく剥けないとか、そういうことを三時間」
「偉大な作家にも悩みはあるんだな」
「俺にもある。眠い」
電車が来た。私たちは並んで吊り革につかまった。窓の外を、見慣れた住宅街が流れていく。武彦はつり革に体重を預けたまま、器用に目を閉じていた。
学校の最寄り駅で降りると、改札の向こうに沙耶香が立っていた。髪を少し短く切っている。
「おはよう、霧谷くん。武彦くん、死んでる?」
「生きてる。カフカのせいで」
沙耶香は笑った。その笑い方が、どこか遠い国の人のように見えた。ハイポリアの姫も、こんなふうに笑ったのだろうか。
「髪、切ったんだね」と私は言った。
「うん。軽くなりたかったの」
それ以上は何も言わなかった。三人で校門までの坂を上った。坂の途中で振り返ると、町全体が朝日に光っていた。
教室に入って、窓際の自分の席に座る。チャイムが鳴るまでの数分間、私はまた空を眺めた。壁はやはり見えない。見えないけれど、そこにある気がした。
担任が入ってきて、出席を取り始めた。私の名前が呼ばれる。
「霧谷」
「はい」
今日も、私はここにいる。




