第三十二回 パンにバターを塗る
前に書いたかどうしたか忘れたが、朝、私は目が覚めて階段を降りてキッチンに向かったのだった。そうしたら、テレビに、女流作家Yが出ていた。性格の良さそうな近所のおばちゃんみたいな顔をして、小説業界界隈のことを語っていた。そこで、私は頭を揺さぶる。
あれ?これ、前にもなかったっけ。女流作家Yは、多分、別の局のインタビューに答えているようだった。自分の作品の次作の宣伝をしていた。そういえば、キッチンという作品もあった。今、私は偶然にもキッチンにいる。そして、冷蔵庫からパンを取り出してバターを塗っていた。
女流作家Yは、叔母さんに似ている。よくイタリア旅行にゆく人だ。話し方のイントネーションが似ている。「あたしん家」というアニメのお母さんの声にも似ている。だから、親しみやすいのだろう。叔母さんも確かに親しみやすかった。でも、テレビでもう一回、彼女を見ると全然違う顔だった。辛うじて、声だけが似ていた。
そういえば、叔母さんとは、小学三年だか四年の頃だろうか、よくプロレスごっこをしていた。叔母さんがイタリア土産のチョコを持って遊びに来ると、決まって居間の座布団がリングになった。
「さあ、かかってきなさい。ジャイアント叔母さんよ」
私が体当たりしても、叔母さんはびくともしない。太い腕で私を抱え上げて、座布団の上にそっと転がす。そっと、なのに、なぜか技名だけはやたらに本格的だった。
「はい、足四の字! ギブ? ギブ?」
「ギブしない!」
「えらい! あんた、根性あるわね」
最後は決まって、私が叔母さんの背中によじ登って勝ったことにしてもらうのだった。叔母さんは畳に大の字になって「やられたあ」と叫び、それから天井を見たまま、ぶつぶつと何か呟いていた。イタリアの言葉だったのか、ただの独り言だったのか、今となってはわからない。
ある時、私はテレビで覚えた毒霧を試してみたくなった。台所で牛乳を口いっぱいに含んで、居間に戻る。叔母さんはいつものように座布団の上で腕を広げて待っていた。
「さあ、ジャイアント叔母さんに勝てるかしら」
私は黙って近づいて、叔母さんの顔めがけて、ぶうっと吹いた。
白い霧が、叔母さんの顔と、パーマと、よそ行きのブラウスに降りかかった。
叔母さんは笑わなかった。眼鏡についた牛乳を指でぬぐって、しばらく黙っていた。それから、ものすごく静かな声で言った。
「……あんた、それはプロレスじゃないわよ」
その日、叔母さんはイタリア土産のチョコを置いて、早めに帰った。私は牛乳くさい座布団の上で、ひとりで勝ち名乗りを上げた。誰も手を挙げてくれなかった。




