第三十一回 数ヶ月後
それから数ヶ月の時が経つのであるが、そうそう簡単にこの人達の人生を著述することは許されないことであり、一寸の虫にも五分の魂というが、この人達の一瞬の輝きを無視して、ここまで時間軸を進めて大丈夫なのかと心配される向きもあるだろう。
現に、とてつもない人生の転機が主人公を襲ったのであるが、その細目を描くには紙数が全く足りないという恨みがある。とはいえ、小説とはそもそもそういうものであり、溢れんばかりの内容のダイジェストでしかない。
その上で、読者が勝手に妄想して、人々の合点により、「小説空間」を作りなしてゆくのだ。それに対して、決して作者は介入してはいけない。これはルールのようなものであるが、多くの作者がこの境をぶち破ろうとする。
そして、壁に頭をぶつけて死んでしまうのである。この場合の壁は、我らが主人公の宇宙の壁のことも含んでいる。謎めいた現象であるが、ある意味ではとても明白な存在である。
だが、正解があればいいという問題でもない。この小説ではある種の正解というものを首尾一貫というものがとても忌避されてしまうものなのだ。どうしてかというと、おそらくあの世と関わってしまっているからであろう。
だから、転生なのである。我々は、そういう意味で言えば、毎日毎日、転生を繰り返している。なんなら、一瞬一瞬で転生しているようなものだ。それを繋ぎ止めているのは、意味である。物語といっても良いだろう。
我々はこの物語を通してしか、ものを認識できないので、これはしょうがない。我々は、実は何も認識できやしないのだ。できているつもりで生きている。とても高度な操作で生きている。鼻の嗅覚が量子的な振る舞いだという説がある。
粒の世界が物理で、波動の世界があの世である。この霧谷という高校生は、粒としては、生き生きとしているが、波動としては生命の危機に晒されているのは、これまでの展開から明白であろう。
そして、物語は驚嘆せざるを得ないある種のピークを迎えてしまっている。だが、宇宙の平衡という大きな目でみれば、こんなことも大したことではないのだ。男がいて、女がいた。ただ、それだけのことであろう。
数ヶ月後、私は、つまり高校生の霧谷は、何事もなかったかのように朝を迎える。ひとりぼっちの朝であるが、バターをパンに塗っている瞬間に、なんだかわからない愉悦を感じたのだった。




