第三十回 義母の誘惑 3
朝、目が覚めると、夢の内容をほとんど覚えていなかった。壁の夢だったことは、わかる。ただ、どんな文字が書いてあったのか、どんな色に光っていたのか、思い出そうとすると、指の間から水がこぼれるように、するすると逃げていった。
不思議と、怖くはなかった。むしろ、頭が軽かった。何日ぶりかで、ぐっすり眠った気がした。台所に降りると、庸子さんが味噌汁を温めていた。小さく鼻歌を歌っている。聞いたことのない節回しであった。どこか、遠い国の子守唄のような。
人は夜眠っている間に、実は死んでいるのだという。目に見える国から、目に見えない国へと旅立っているのだ。つめり、あの世の論理というやつであり、それこそ、宇宙空間みたいなものである。そこからのメッセージを人は受信して、その通りに生きているのだ。いや、ノイズとして真に受けない人がほとんどなのであろう。それを真に受けたのが、空海ということになる。大切なのは、どうやって受信するかである。
その点、武彦の能力はわかりやすい。なんらかの人格があるからだ。それをキャッチする。私にはまだそこまでの能力はない。せいぜい、壁のメッセージを受け取るくらいである。私は壁に、「もし、爆乳ある時、人はどうする」ときいた。そうしたら、「揉みたまえ」という答えが返ってきた。だから逆らおうとは思わない。
「おはよう。よく眠れた?」
「はい。なんか、久しぶりに」
「よかった」
庸子さんは、うれしそうに頷いた。冷蔵庫を開けると、昨日、沙耶香から預かったジップロックが、奥のほうに入っていた。中のワカメは、一晩で、すっかり色が抜けていた。表面の模様も、ぼんやりとにじんで、もうただの海藻にしか見えなかった。
「あら、それ。乾物? お味噌汁に入れちゃおうか」
背中から、庸子さんの声がした。私は、しばらくジップロックを見つめていた。何か大事なものだった気がする。誰かに、とても大事なものだと言われた気がする。
「……いえ。これは、友達のなので」
私は、ジップロックを冷蔵庫の奥に戻した。庸子さんは、それ以上何も言わなかった。ただ、鍋をかき回しながら、また、あの子守唄の続きを口ずさみ始めたのだった。窓の外では、季節が少しずつ、冬のほうへ傾いていた。その爆乳をどうするつもりだ。と、私は心の中で自問した。それに、庸子は答えるのであった。獲物にかかった動物を麻痺させるかのような虚空の笑顔で。




