第二十九回 義母の誘惑 2
その夜、喉が渇いて目が覚めた。時計を見ると、午前二時を回っていた。階段を降りると、居間に明かりがついていた。庸子さんが、ソファに座って、膝の上で何かをしていた。古いセーターであった。庸子さんは、その袖口から、毛糸を少しずつほどいていたのだった。ほどいた毛糸は、足元の籠の中で、ゆるやかな山になっていた。
「あら、起こしちゃった?」
「いえ。水を飲みに」
「眠れないの?」
「ちょっと、夢を見て」
嘘ではなかった。また、あの壁の夢だった。白く光る壁の前に立ち、文字を読み上げようとして、目が覚める。いつもと同じである。ただ今夜は、壁の文字が、少しだけ遠かったような気がした。宇宙の流れに乗るんだ。宇宙はシナリオを考えてくれている。という言葉が書かれているような気がした。それはそうかもしれない。多くの人たちが自分の人生をハンドリングしようとして失敗している。私も湧き上がる感情を止めることができない。所詮、この世は、なすがままなのであろうか。そういう意味でも壁なのか。私はいつから壁男になったのだ。不意に厚揚げが食べたくなってきた。急にあのカラッと焼いてある衣を食べたくなる。そういえば、あの厚揚げも壁っぽいではないか。将来、厚揚げ屋として、屋台を引っ張って歩き回ろうか。意外と、繁盛するかもしれないが、まだ早い。宇宙からのメッセージがあったら、そうしよう。
「庸子さん、何をしてるんですか」
「これ? 前の家から持ってきたセーターなの。もう着ないから、ほどいて、毛糸に戻してるの」
「戻して、どうするんですか」
「さあ。どうしようかしら」
庸子さんは、少し笑った。指先は止まらなかった。一目、また一目と、編み目がほどけて、ただの一本の糸に戻っていく。
「編んだものって、ほどくと、すごく軽くなるのよ。形があったときは、あんなに重かったのに。何を編んでたのかも、だんだんわからなくなるの」
私は、黙ってその手元を見ていた。なぜだか、目が離せなかった。
「直人君も、やってみる? 気持ちが落ち着くわよ」
庸子さんが、ほどきかけの袖を差し出した。私は、手を伸ばしかけて、止めた。右腕が、ほんの少しだけ、熱かった。
「……今日は、やめておきます」
「そう」
庸子さんは、気を悪くしたふうもなく、また毛糸をほどき始めた。
「いつでもいいのよ。急がないから」




