第二十七回 帰り道のハイポリア
帰りの車の中は、しばらく誰も口をきかなかった。白樺の林が後ろへ流れていき、やがて見慣れた杉林に変わったころ、ようやく武彦が言った。
「なあ、青海。ハイポリアって、どんな国だったんだ。ちゃんと聞いておきたい。俺、あそこの王様を降ろしかけて、ワカメを吐いたんだからな」
沙耶香は、膝の上のワカメを見下ろして、少し笑った。
「大きな湖があったの。都はそのほとりにあって、白い塔がたくさん建ってた。夕方になると、塔が湖に映って、都が二つあるみたいに見えるの」
「湖か。じゃあ、魚はいたのか」
「いたよ。銀色の、細長い魚。みんな塩焼きにして食べてた」
「ワカメは」
「……あったかなあ」
沙耶香が首をかしげると、運転席のペヤング先生が、ふん、と鼻を鳴らした。
「淡水にワカメは生えん。だが、似た水草なら生える。その国の人間は、それを何かに使っていなかったか」
「あっ」
沙耶香が顔を上げた。
「糸。湖の水草を干して、細く裂いて、織物の縦糸にしてたの。だから、ハイポリアの織物は、濡らすとちょっとだけ湖の匂いがするの」
私と武彦は、顔を見合わせた。武彦が吐いたワカメは、ワカメではなく、果ての壁の縦糸だったのかもしれない。
「文字はどうだ。読み手しか読めないと言ったな」
と先生が聞いた。
「普通の人は、模様としてしか見えないの。でも、王族と読み手だけは、小さいころから、模様を声に変える練習をするの。お父様はよく、文字は目で読むものじゃない、息で読むものだって言ってた」
「息継ぎの位置か。やはりな」
先生は、一人で満足そうに頷いた。
「霧谷君は、覚えてる?」
沙耶香が、私の方を向いた。
「騎士だったころのこと」
私は窓の外を見た。夕日が、杉林の隙間から、ちらちらと差し込んでいた。
「はっきりとは覚えてない。でも、湖の匂いはわかる気がする。それと、鎧が重かったこと。あと、なんでだろう。塔の上から見た、湖の向こう岸の景色」
「東の山ね」
「うん。たぶん、毎晩見張ってたんだと思う」
沙耶香は、黙って頷いた。その横顔は、教室で見るより、ずっと大人びて見えた。
「俺は、何だったんだろうな」
と武彦がぼやいた。
「船乗りじゃない? 湖の渡し守。ワカメ吐くくらいだし」
「ひでえな」
車の中に、ようやく笑い声が戻った。
家の前で降ろしてもらうと、窓に明かりがついていた。台所から、煮物の匂いがした。庸子さんが、もう帰ってきているのだった。




