第二十六回 白樺台病院
日曜の朝、ペヤング先生の車は、校門の前で待っていた。古い軽自動車で、後部座席の足元には、空になったペヤングの容器が三つ転がっていた。
「すまん。片付ける暇がなかった」
と先生は言ったが、片付ける気配はなかった。武彦が助手席に、私と沙耶香が後ろに乗った。沙耶香は、ジップロックに入れたワカメを膝の上に大事そうに抱えていた。
車は一時間ほど、山道を登った。白樺の林が続き、窓の外がだんだん白っぽくなっていく。武彦は途中から黙り込み、時々、自分の喉を押さえていた。
「どうした」
「いや。また何か出てきそうな気がしてな」
白樺台病院は、林の奥にひっそりと建っていた。灰色の三階建てで、窓には細い鉄格子がはまっている。受付で先生が何か話すと、年配の看護師が、ああ、と小さく頷いた。
「あの方なら、中庭にいますよ。今日は調子がいいみたい」
中庭には、先生の言った通り、小さな池があった。池の周りには落ち葉が積もり、水面は鏡のように静かだった。
その水面の、ちょうど真ん中に、一人の老人が立っていた。
立っていた、のである。
灰色の寝間着を着て、裸足で、水の上に。足の下には、波紋ひとつ立っていなかった。
「……嘘だろ」
と武彦が呟いた。沙耶香は私の腕をつかんだ。先生だけが、懐かしそうに目を細めていた。
老人は、ゆっくりとこちらを振り向いた。そして、水の上を、まるで畳の上を歩くように、すたすたと岸まで歩いてきたのだった。
「宇田川君か。ずいぶん太ったな」
「ご無沙汰しています」
「約束を、守ってくれたか」
老人は、私の前に立った。皺だらけの顔の中で、目だけが、子供のように澄んでいた。
「読み手だな。それに、姫と、降ろし手か」
沙耶香が息をのんだ。武彦は、なぜか背筋を伸ばした。
「どうして、わかるんですか」
「わしも、読み手だったからだ。ただ、読みすぎた。壁の文字が、目を閉じても開けても見えるようになった。そうなると、人の世では暮らせん。だから、ここにおる」
老人は、池を振り返った。
「水の上を歩けるのは、悟ったからではない。止まらなくなっただけだ。ここにおる者は、みな同じだ。開きすぎた扉を、閉められずにおる」
それから老人は、私たち三人の顔を、順番に見た。
「おまえたちも、じきに扉が開く。その時は、怖がらずに、ここへ来なさい」
白樺の林を、冷たい風が吹き抜けていった。




