第二十五回 池の上の男
ペヤング先生は、落とした箸を拾おうともしなかった。しばらく黙って、冷めていくペヤングを見つめていたが、やがて、
「ちょっと、外で話そう」
と言って立ち上がった。
私たちは、校舎裏の自転車置き場に連れて行かれた。武彦が、サイクリング部の自転車にもたれかかった。先生は、白衣のポケットから煙草を出しかけて、生徒の前だと気づいたのか、またしまった。
「二十年前、私は入院していたことがある」
先生は、ぽつりと言った。
「大学院の頃だ。古代文字の研究に入れ込みすぎてな。夜、目を閉じると、文字が勝手に頭の中を流れていく。止めようとしても止まらない。眠れなくなって、ある日、図書館で倒れた。気づいたら、山の上の病院にいた」
沙耶香が、私の袖をそっとつかんだ。
「その病院の中庭に、小さな池があった。夜中にな、そこで一人の爺さんが、何かを読み上げていたんだ。今のおまえと、まったく同じ節回しで」
「何を読んでいたんですか」
「わからん。手には何も持っていなかった。空を見上げて、まるでそこに字が書いてあるみたいに読んでいた。そして」
先生は、言葉を切った。
「爺さんは、池の上に立っていた」
「池の、上?」
と武彦が聞き返した。
「水の上だ。足首も濡れていなかった。私は夢だと思った。薬のせいだと思った。看護師に話したら、あの人はいつもそうだから、気にしないでいい、と言われた」
自転車置き場のトタン屋根に、風が当たって、かたかたと鳴った。
「退院する日、爺さんに声をかけられた。『いつか、若い読み手が来る。そうしたら、ここへ連れておいで』とな。私は、ずっと冗談だと思っていた」
先生は、私の顔を見た。それから、沙耶香の手の中のワカメを見た。
「霧谷。おまえ、最近、眠れているか」
私は答えられなかった。宇宙の果ての壁の夢を、もう何日も続けて見ていた。読み上げようとするたびに目が覚めて、そのまま朝まで天井を見ていることが、多くなっていた。
「白樺台病院という。まだあの爺さんがいるかどうかは、わからん」
先生は、ようやく煙草に火をつけた。
「今度の日曜、行ってみるか」




