第二十三回 ハイポリアのベクトル
「王様ねえ。そういうのが一番むずかしいんだよ」
と武彦は、太い首をさすりながら言った。
「カフカなら、プラハって方角がある。墓もある。でも、ハイポリアってのは地図に載ってないだろう。ベクトルが定まらないんだよ」
「ベクトル?」
と沙耶香が首をかしげた。
「降霊ってのはな、向きと大きさなんだ。どっちの方角に、どれだけ遠くまで手を伸ばすか。向きがわからないと、全方向に手を伸ばすことになる。それは、すごく疲れる」
「じゃあ、東よ。黒い旗の軍勢は東の山から来たもの」
「それは敵の来た方角だろう。都はどっちなんだ」
「湖のほとり」
「だから、その湖がどこにあるんだよ」
武彦は頭を抱えたが、結局、呪文を唱え始めた。両手を広げて、右へ左へ、上へ下へと、ゆっくり向きを変える。まるでアンテナを合わせる古いテレビのようであった。
「北北西……違う。上か。いや、下だ。ずっと下……」
その時、武彦の目がぐるりと白くなった。そして、椅子ごと後ろへひっくり返ったのだった。
「武彦!」
私が駆け寄ると、武彦は床の上で口を半開きにしていた。そこから、何か黒っぽいものが、ずるずると出てきた。
ワカメであった。濡れて、つやつやと光る、一本の長いワカメであった。
しばらくして、武彦は咳き込みながら目を開けた。
「おい、大丈夫か。どこに行っていたんだ」
「……水の底だ。ずっと下へ下へ、ベクトルを伸ばしたら、湖の底に着いちまった。暗くて、冷たくて、王様どころじゃない」
「湖にワカメはないだろう」
「知らないよ。生えてたんだから」
沙耶香は、床に落ちたワカメを、そっと拾い上げた。そして、西日にかざした。
「霧谷君、見て」
ワカメの表面に、細かい模様が浮かんでいた。縦と横に、規則正しく。それは、織物の目であった。
「果ての壁の、切れ端……」
沙耶香の指が震えていた。そして、私の目には、その模様が、文字に見え始めていたのだった。読めそうで、読めない。いつも夢で見る、あの壁の文字であった。これは、古代ハイポリア語とでも言うのだろうか。いや、違うかもしれない。何にせよ、とてつもなく気になる文章であることは確かだ。ひょっとしたら、国語教師のペヤングならわかるかもしれない。




