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実存的転生  作者: ウィリアム輝夫
デート
20/34

第二十回 カラオケ


 会計は、沙耶香がさっさと済ませてしまった。私が財布を出そうとすると、「今日は私が誘ったんだから」と、手で制されたのである。マスターは釣り銭を渡しながら、はじめて口を開いた。


「またお越しください」


 低くて、少しかすれた声だった。それだけ言うと、マスターはまたカウンターの奥へ戻っていった。扉を出る時、私はなんとなく振り返った。マスターが、あの奥の席の織物を、じっと見上げているのが見えた。まるで、何かを確かめるように。

 ベルが揺れて、扉が閉まった。


「まぶしっ」


 外に出ると、昼下がりの日差しが容赦なく照りつけてきた。喫茶店の薄暗がりに慣れた目には、ありふれた町並みが、やけに白っぽく見えるのであった。さっきまで燃える塔や湖の話をしていたのが、嘘のようである。


「ねえ、霧谷君、カラオケ得意?」

「得意に見える?」

「見えない」

「正解」

「じゃあ、何歌うの」

「歌わない。聞く専門」

「ダメです」


 沙耶香は、当然のように私の腕に絡まってきた。今度は、私の足も、右手と右足を一緒に出したりはしなかった。慣れたのか、それとも、さっき握った手のせいなのか、自分でもよくわからなかった。


「カラオケってさ、俺、昔から苦手なんだよ」

「なんで」

「みんなが盛り上がってるのに、自分だけ取り残される感じがするから」

「若者だろ」

「早生まれだから」

「それ、さっきも聞いた」


 沙耶香はけらけら笑って、私の脇腹を肘でつついた。


「大丈夫。今日は二人しかいないんだから、取り残されようがないでしょ」

「それはそれで、逃げ場がないんだけど」

「逃がしません」


 駅前の雑居ビルの三階に、そのカラオケ店はあった。エレベーターの中で、沙耶香は鏡を見ながら、赤くなった目元を指でちょんちょんと押さえていた。


「やっぱり、崩れてる」

「崩れてない」

「今度は早かった」

「学習したんだよ」

「えらい」


 受付で二時間を頼み、ドリンクバーのメロンソーダを二つ手にして、狭い個室に入った。黒いソファに、低いテーブル。壁には、安っぽい星空の模様が描かれている。天井のミラーボールが、まだ回ってもいないのに、白い光をちらちらと跳ね返していた。


「さてと」


 沙耶香は、公園のベンチで言ったのとまったく同じ調子でそう言うと、リモコンの端末を手に取った。ものすごい速さで画面を叩いていく。


「ちょっと、何曲入れてるの」

「五曲」

「いきなり五曲」

「死活問題だから」

「カラオケも死活問題なのかよ」

「そう。泣いた分、取り返さないと」


 沙耶香はそう言って、端末を私の方へぐいっと押しつけてきた。


「はい。霧谷君も一曲は入れること」

「えー」

「えー、じゃない」


 私は端末を受け取って、しばらく画面をにらんでいた。流行りの歌など、ほとんど知らないのである。指が迷ったあげく、検索欄に打ち込んだのは、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」であった。


「渋っ」

「これしか思いつかなかったんだよ」

「でも、いいね。お上りさんの歌でしょ」

「旅する男女の歌、だよ。たぶん」


 画面が切り替わって、最初の曲のイントロが流れはじめた。沙耶香はマイクを握って立ち上がり、ブーツのかかとでとんとんと床を鳴らした。

 ミラーボールが、ゆっくりと回りはじめる。青や金の小さな光の粒が、狭い部屋の壁じゅうに散らばった。

 その光景が、一瞬だけ、夜の湖に映る燃える都と重なって見えた。私は、あわててメロンソーダをひと口飲んだ。


「霧谷君、ちゃんと見ててよ」

「見てるよ」

「ほんとに?」

「ほんとに」


 沙耶香は、にっと笑って、マイクを口元に寄せたのであった。


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