第二十回 カラオケ
会計は、沙耶香がさっさと済ませてしまった。私が財布を出そうとすると、「今日は私が誘ったんだから」と、手で制されたのである。マスターは釣り銭を渡しながら、はじめて口を開いた。
「またお越しください」
低くて、少しかすれた声だった。それだけ言うと、マスターはまたカウンターの奥へ戻っていった。扉を出る時、私はなんとなく振り返った。マスターが、あの奥の席の織物を、じっと見上げているのが見えた。まるで、何かを確かめるように。
ベルが揺れて、扉が閉まった。
「まぶしっ」
外に出ると、昼下がりの日差しが容赦なく照りつけてきた。喫茶店の薄暗がりに慣れた目には、ありふれた町並みが、やけに白っぽく見えるのであった。さっきまで燃える塔や湖の話をしていたのが、嘘のようである。
「ねえ、霧谷君、カラオケ得意?」
「得意に見える?」
「見えない」
「正解」
「じゃあ、何歌うの」
「歌わない。聞く専門」
「ダメです」
沙耶香は、当然のように私の腕に絡まってきた。今度は、私の足も、右手と右足を一緒に出したりはしなかった。慣れたのか、それとも、さっき握った手のせいなのか、自分でもよくわからなかった。
「カラオケってさ、俺、昔から苦手なんだよ」
「なんで」
「みんなが盛り上がってるのに、自分だけ取り残される感じがするから」
「若者だろ」
「早生まれだから」
「それ、さっきも聞いた」
沙耶香はけらけら笑って、私の脇腹を肘でつついた。
「大丈夫。今日は二人しかいないんだから、取り残されようがないでしょ」
「それはそれで、逃げ場がないんだけど」
「逃がしません」
駅前の雑居ビルの三階に、そのカラオケ店はあった。エレベーターの中で、沙耶香は鏡を見ながら、赤くなった目元を指でちょんちょんと押さえていた。
「やっぱり、崩れてる」
「崩れてない」
「今度は早かった」
「学習したんだよ」
「えらい」
受付で二時間を頼み、ドリンクバーのメロンソーダを二つ手にして、狭い個室に入った。黒いソファに、低いテーブル。壁には、安っぽい星空の模様が描かれている。天井のミラーボールが、まだ回ってもいないのに、白い光をちらちらと跳ね返していた。
「さてと」
沙耶香は、公園のベンチで言ったのとまったく同じ調子でそう言うと、リモコンの端末を手に取った。ものすごい速さで画面を叩いていく。
「ちょっと、何曲入れてるの」
「五曲」
「いきなり五曲」
「死活問題だから」
「カラオケも死活問題なのかよ」
「そう。泣いた分、取り返さないと」
沙耶香はそう言って、端末を私の方へぐいっと押しつけてきた。
「はい。霧谷君も一曲は入れること」
「えー」
「えー、じゃない」
私は端末を受け取って、しばらく画面をにらんでいた。流行りの歌など、ほとんど知らないのである。指が迷ったあげく、検索欄に打ち込んだのは、サイモン&ガーファンクルの「アメリカ」であった。
「渋っ」
「これしか思いつかなかったんだよ」
「でも、いいね。お上りさんの歌でしょ」
「旅する男女の歌、だよ。たぶん」
画面が切り替わって、最初の曲のイントロが流れはじめた。沙耶香はマイクを握って立ち上がり、ブーツのかかとでとんとんと床を鳴らした。
ミラーボールが、ゆっくりと回りはじめる。青や金の小さな光の粒が、狭い部屋の壁じゅうに散らばった。
その光景が、一瞬だけ、夜の湖に映る燃える都と重なって見えた。私は、あわててメロンソーダをひと口飲んだ。
「霧谷君、ちゃんと見ててよ」
「見てるよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
沙耶香は、にっと笑って、マイクを口元に寄せたのであった。




